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2024年8月11日の政治・時事ニュース リスクの極大評価と極小評価

今回は受け取り手の都合によって極大評価されたり極小評価されたりする日本のあやふやでいい加減なリスク評価について書きました。日本人として生まれたからにはこの病から抜け出すことはできませんし、気がつくこともできません。仮に合理的に気がついたとしても「いざ自分ごと」になったときには「でもやっぱり」ともとに戻ってしまいます。

例えば巨大地震は原子力発電所を評価するときには極小評価されます。原発で食べている人が多いからです。しかし公共工事を誘致する場合には極大評価されます。公共工事を誘致するにはそのほうが便利だからです、このためいざ巨大地震のリスクに遭遇するとこのあたりがコンフリクトするのですが「他人がどう行動しているか」を見てそれに合わせようとします。今回の事象では観察できませんが、戦争のような超巨大なリスクが生まれると他者を圧迫して従わせると言う同調圧力も生まれます。第二次世界大戦中はこのような同調圧力が閉鎖的な空気を作り出しました。

例えば原発に反対しているような人は「原発のリスクは極小評価されている」というと「そうだそうだ!」などというわけですが、とはいえ「あなたにもその傾向がありますよね」と指摘されると「いや私にはそんな傾向はない」というでしょう。

ただ、外国人に説明できないと言う形では明確にその異様さが現れます。合理的に他者に説明できないんですよね。

もう三点はアメリカ合衆国の政治についてです。アメリカの民主主義は転換点にあります。おそらくコンセプトとしては理解してもらえると思うのですが、日米同盟の評価に話が及ぶとわかりやすく思考が停止すると思います。日米同盟と自由主義経済にフリーライドしてきた時代が長いので「リスク」を評価できないわけです。

この日本人はリスクを都合に応じて評価するということを日本人が近くすることは難しいですから「日米同盟の基礎が揺らいでいる」という事実を指摘しても「この人は反米だから騒いでいるんだろう」くらいの認識にしかなりません。仮にこれら極小評価してきたものが破られると人々は「想定外だった、予想できなかった、仕方なかった」と言い訳することになるでしょう。


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