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45. 介護期間中のラブストーリー

 ここまでの各エピソードが進行している間にも、恋愛ごとは少なからずあった。どれもまた実らない恋愛ストーリー。以前抱いていた『何人か同時に愛せる人間なんじゃないか?』という自分への憶測は、ここに至るまでの間に『自分はそういう類の人間ではない』という明確な答えが出ていた。シンプルに誰か一人を愛して愛されたい。

 イビサを引き上げる直前、その数年前に一度デートをした男性がいて、その彼と関係が再燃した。初デート直後、彼の曖昧な態度にがっかりさせられたこともあり、本気になるような相手ではないと割り切っていたのと、自分の生活に戻るのに何年かかるか予想できなかったので、しばらく味わえない甘い時間を持っておいてもいいかもしれないという軽い気持ちで、そこで終わるはずだった。

 介護生活8ヶ月目の2016年夏、私はイビサの居住許可のカードを更新せねばならず、それとブームフェスティバルにボーカルで呼ばれていたことで、父をお手伝いさんと弟に任せヨーロッパに飛んだ。まだその時点では、父がすぐにでもどうにかなるという進行状況ではなかったため1ヶ月の休暇のような時間だった。その間、イビサの家を引き払った直前に再燃したその彼と、思いがけずラブストーリーが始まってしまった。

 彼には魂レベルで惹かれるところはなかったにしろ、彼の辿ってきた道を聞くとそれなりに面白い経歴を持っていた。5つ年下のブルガリア人。子供ができて学生結婚し、ブルガリアの首都ソフィア大学から中国の大学に留学し、そのまま中国の経済成長と共に不動産業界で働き始め、中国語、ロシア語と英語が流暢に出来ることで、白人系のお金を持ったビジネス系の人達からと、中国人ビジネスマンや企業からの両方の信頼を得て、それなりに貯金を築いたようだった。その後、ずっと折り合いが悪かった配偶者と14年目にして離婚したことからそのまま蓄えたお金でアジア圏を旅して、ファイヤーダンスを習い、それが高じてパフォーマーとして各地に呼ばれるようになり、一時期はヘリコプターで宙吊りになって登場するようなそんな大きなショーを任されていたりして、それがきっかけでイビサに2010年頃から住み出した人だった。

 この頃この彼は、ダンサーの仕事を少なくして、ソロのギタリストとしてライブすることを目指して何時間でも練習を重ねていた。子供の時からやっていたというだけあって、みるみると完成度を高め、クラシックギターで誰もが知っているような名曲の数々をどんどんとレパートリーとして増やしていた。私が本格的にイビサに戻った時から翌年には完全に職業をギタリストに切り替えて、ウェディングやラグジュアリーホテルやレストランなどに呼ばれるようになっていた。

 そういう努力家なところや、中国のマーシャルアートやタオイズムなどをベースに常に自己鍛錬している人だったから、学ぶところは色々あったし、彼が言い出した一緒に音楽を作ろうという”二人の目標”も私を強く引きつけた。私の父が亡くなった年の暮れ、新年を跨いでブルガリアを二か月ほど訪ねた時には、介護が段々と必要になっていた彼の母親とも過ごし、介護に少し慣れた私はそれを少し手伝ったりした。振り返えって見ると、それぞれに直面した”親の介護”という人生のステージも、私達を結びつけたのかもしれなかった。あれはちょうど二人の人生の道筋が交差した稀な時間だったのだろう。

 父の死後、段々と彼の首尾一貫しない言動に振り回されてしまうことに疲れ、ブルガリアを訪ねた直後から1年かかったが平和的に別れた。その後、紆余曲折あり私にしては珍しく今は全くつきあいを経っているし、コロナ期間中、彼は30年の自国を離れた生活に終止符を打ちブルガリアに戻ったので、どういう現在を送っているかは知らない。

 肝心の居住許可カード更新の申請は、用意を万全に行ったはずなのに、やっぱりラテン系の人々の仕事らしく、全く進行出来ていなかった。日本のシステム、完成度がスタンダードな私達から見ると、ほとんどの国では物事が思ったように進まないし、スペインで、しかも島であるイビサともなると、遅いとか遅れるのは日常茶飯事で、キャンセル、フェードアウトやら日程の変更、何もかもがスケジュール通りにはいかない。腹を立てても仕方なく、もうそういうものだと諦めていて、日本並みに事が済んだものならミラクルだと思うようになった。

 結局この時も、弁護士を通して進めていたのに、申請から受け取りまでという事が出来ず、申請するのみで終わってしまい、出来上がったカードをまた本人が11月に取りに来なければならなくなった。この彼と期せずして甘い時間を過ごすことになった私が、11月にまたイビサへ戻らなければならなくなったのは、今思えば必然だったのかもしれない。その時間がなかったら、多分その一夏の甘い時間だけをラバーとして楽しんで、それでおしまいだったと思うのだ。その11月に許可証を取りに行った10日間という短い期間で、彼は私の事を”ガールフレンド”として扱うようになっていたが、いつまでこの介護生活が続くかも分からなかったし、このまま一緒にいたいという気持ちが湧いてしまう自分をどうしていいのか分からなかった。

 イスラエルのランと別れてからというもの、国境を越えての恋物語ばかりで続かなかった。毎回悲しくて切ない思いをして、もうどこか一箇所に定住するまでは恋には落ちるまいと思っていたし、イビサに住み始めてからはイビサに住む人とパートナーシップを築けるかと思ったけれどそうではなかった。私ときたら、恋に落ちるのは旅先でか、イビサに来た旅人か、そして今回はイビサの住人ではあるにはあるが、最初のデートでは発展せず、私が日本に戻っているというタイミングで始まってしまった。

 私は”自立”することに重きを置いてしまい、依存したりされたりする関係になると、それを切り捨てて身軽になろうとしてしまうという”傷ついた女性性”が引き起こす恋愛のパターンに陥っていたのかもしれない。

 この夏のイビサへの旅の終わり、シャンティクランティが60年の一生を終えた。お昼寝をする様に亡くなったそうだ。葬儀には出向けなかった。癌だということがわかった時に彼女とは一緒の時間を過ごし、それが最後になるだろうとは思っていた。霞がかった空に桜咲く山梨の道中の温泉で彼女の背中を流したその思い出と”一期一会”の言葉が身に沁みる。

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