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36. 戦争

 レバノンとの国境付近の北の街から南の方へ避難する人々で各地はごった返し、多分戦争のことを話しているであろうヘブライ語で交わされる会話は熱を帯びていて、インターネット上ではイスラエルを非難する言葉で溢れかえり、私は、なぜアラブ諸国とイスラエルが対立しているのかを初めて学んだ。

 そこにはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の世界三大宗教の聖地’エルサレム’を巡っての、とてつも長い複雑な事情がある。

 ユダヤ教徒の’ユダヤ人’は、紀元前18世紀、神からのお告げにより現イスラエル、”カナンの地”を与えられた。その地でユダヤ人は繁栄し、エルサレムに神殿が建てられ、ユダヤ教が完成され聖地となった。ところが紀元前60年から1世紀、ローマ帝国に侵略され属州になってしまったその頃、新しい宗教観をエルサレムにて布教していたイエスキリストがユダヤ教徒により処刑され、キリスト教が誕生しエルサレムがキリスト教の聖地とされた。その後ローマ帝国に反乱を起こしたユダヤ人は国を追われてしまい、1900年近くもの間、世界を彷徨い迫害されることとなった。7世紀に入るとユダヤ教発祥と同じ丘の岩でお告げがあり、イスラム教が誕生したので、イスラム教の聖地にもなった。これだけでも既にややこしいのに、ここに宗教宗派、政治が絡んで、2000年にも及ぶ”エルサレムの取り合い”が起きている。

 現在のイスラエルは、16世紀から19世紀までイスラム教諸国に支配されパレスチナという国だったのだが、先の2つの世界大戦時によるイギリスの三枚舌外交によって事態は複雑化した。イギリスとの約束通り、ユダヤ人は”自国”に戻ったのだが、結果パレスチナを侵略するという形になってしまった。抵抗するパレスチナとの争いの末、ユダヤ人が80%の国土を得てイスラエルを建国。その後もイスラム教諸国とイスラエルとの和平交渉が再三に渡り行われているが、現状を不服とするイスラム教徒過激派によるテロも多い。

 パレスチナにとっても、イスラエルにとっても”自分達の国”というややこしい状況は、確かに一筋縄ではいかない。ここ最近ではトランプ元大統領が、エルサレムをイスラエルの首都であると承認したため、パレスチナ側であるアラブ諸国の更なる反発を招き、何れにせよ未だに和平には至らない。

 戦争をしている国に、自分はいた。爆心地にいたわけではないから、国の大部分のエリアでは普通の日常生活を送っていたし、イザコザに慣れているイスラエルらしくパーティーもあった。それでも、自分のそんな身近に戦争が起きたことで、改めてイスラエルにいる自分のことや、戦争のことを考えた。実際、ランの母親は、爆心地近くの村に住む親戚を助けに行っているとか、友人の友人などが戦争に出向くなどの話もあった。考え込んだ所為なのか、戦争が間近で起こっているからなのか、はっきりとした理由はわからなかったが、胸のみぞおちあたりに重い痛みが現れた。

 この国の空気が好きになれなかった自分。ランや周りの人々に囲まれていれば、イスラエル人特有の温かさや陽気さ、加えて頭の良さ、ビジネスセンス、インテリアや食、”キブツ”というコミュニティシステムなど、魅力的なところが多く、彼らに囲まれていれば、普段はあまりそれを感じずにすんだ。だが一歩、それ以外の世界に一人で出ていくと、その”きな臭い”ような空気はいつだってあった。

 なぜ、人は殺し合うのだろう?なぜ、国同士は戦争をするのだろう?なぜ、戦争は今もなくならないのだろう?

 自国が多くを持ちたいがために、有利に立ちたいが為に、他国の人々を殺すとか、殺し合うとか、他国からの侵略に備えて武器を多く持つとか、愚かで悲しすぎる。武器を作るためのテクノロジーと予算があれば、地球を傷つけず、自然を再生させながら、快適に生きとし生けるものが暮らせるはずなのに。1日に100種類もの動植物が地球上から、毎日絶滅しているという事実を一体どれぐらいの人がわかっているのだろうか?

 この頃初めて、武器を作って売ったりする会社が世界中にあることを知った。半分ほどはアメリカだが日本も例外ではない。家電メーカーや自動車メーカーが部品を作っていたりもするし、直接、作っていなくとも、名だたる企業や銀行が今もそこにお金を投資していたりする。日本の銀行や企業も含まれているから、知らずに何かを買ったりお金を預けることで、間接的に軍需産業に加担しているということもあるのだということも分かった。

 「自分達の神しか認めない」という宗教観や、国の所有欲や権力欲が争いや戦争を引き起こしているのかもしれないが、国や集団というのは一人一人から成る。一人一人は世界の縮図だ。他の人の価値観を理解し尊重する心や、多様性を認めれば、対立やら争いが無くなるだろうと思うのだが、人類全体どれだけの精神的成長が果たされなくてはならないのだろう?

 戦争とは、”自分達が正しくて、他は認めない”という意識や、いつしか”他よりも自分が優位に立つため”の所有欲や権力欲などが引き起こしている。今だって、ロシアとウクライナが領地を巡って戦争を続けている。

  それとも戦争はホモ·サピエンスの本能なのか?他種から比べると、種として劣っていたサピエンスは”集団になる”ということが出来たお陰で勢力をつけ、他種を滅ぼし世界に広がった。埋め込まれたサバイバル本能が戦争を作り出しているのか?ならば、その本能を発動しない新種に私達が進化すべきか?

 当時、私はブログを通じて、「戦争が終わるように祈って欲しい」とお願いした。データなどで祈りの力は証明されている。今も、時々祈る。変な話だが、イライラを感じるようなことがある時、今もなお起きている戦争を思い出し、その場にいる人々に心を寄せると、自分のイライラの原因などは取るに足りないことだと思い知る。そして、祈る。世界から戦争がなくなり、飢餓がなくなり、自然破壊が無くなるように、自分含め人類がもっと精神的に成長できるように。

 この世界三大宗教の教え「我らが神を信仰していない者達は滅ぼして良し」とする神とは本当に神なのか?現代の日本人の感覚を持つ私からするとそう思ってしまうが、この三大宗教は、この現代社会においても自分達の神が唯一の神であると教えているのだろうか?それとも多くの若い世代は科学を信じ、宗教の作り出した物語のことはそれはそれと考えているのだろうか?

 日本人の宗教観は逸脱している。ヤオロズの神というように神は無限にいて、自然に神が宿ると信じ、自分で定義すればそれが神になる。多様性を認めることが、私達現代の日本人には普通のこととして意識に組み込まれている気がする。無宗教とも、平和ボケとも揶揄されるが、その宗教観は”現代的”なだけだと思うのだ。宗教の教えを守るとかでなく、信仰心から来る道徳観。一般的な私達は、誰に教えられるでもなく神社仏閣に気軽に立ち寄り、目に見えない何か大いなる存在を信じていたりする。”お天道様”に見られてるという意識があったりする。自分自身の中に神を見ている。何のベネフィットも求めず、ただただ瞑想する”禅”を進化させた日本人の意識が好きだ。凛として謙虚で美しいと思うからだ。

 世界がどう転ぼうとも、人類がどういう風な道を歩もうとも、私は一人一人の精神的成長は、世界平和に繋がると信じているし、個々の中に世界平和を築く鍵はあるのだと信じている。長い道のりだけれども、そこに向かっているからこそ、シェアの心やボランティア精神が早期に芽生え、健康的な精神を培うことを重要視している若い世代が育っていると思うし、そこには希望しかない。まさに”風の時代”を感じている。世界で何が起こっていようが、それぞれが”自分を生きる”ことで幸せになるしかないのだろうし、自分を癒して、エゴから来るような悲しみや怒りのエネルギーを世界にばら撒かず、新たな傷を作らず、進化の”クオンタムリープ”を起こす一部になるしかない。

 話を元に戻そう。戦争が起きてしばらくして、予定通りランと二人でポルトガルのフェスティバルに向かった。到着して3日ほど経った時、私達が住んでいる「近所の海に爆弾が落ちた」とランの友人から連絡をもらった。戦争が終わるまで、イスラエルには帰れない事、確定だ。私達は、一旦そのことを傍に置いて、ヨーロッパでは名高いそのフェスティバルを思う存分楽しんだ。

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