見出し画像

41. 東日本大震災

 3月11日のその日、朝からみぞおちの辺りが痛み、お昼頃その痛みに耐えかねて少しベッドに入って眠った後、起きてベッドを降りようと、ちょうど片足を着いた時だった。

『え、、、、?この揺れは何?寝ぼけてるの?』と思うか思わない一瞬に地震だと気がついた。今まで経験したことのないような揺れだが、私は結構落ち着いていて、壁にかかっている重い鏡が落ちたら困ると思い、その鏡の前の丸テーブルに乗せてあった2日前に購入したばかりのラップトップをテーブルの下に移動した。東京には3日前に地方ツアーから戻ってきたばかりだった。

 少し揺れが治まるかのようで安心したその瞬間、ドーンっと突き上がるように揺れ、今度は思わず叫んでいた。このままビルが崩れ落ちてしまうかのような、世界が終わるかのようなそんな恐怖を感じた。ベランダに続くサッシがゆらゆらと勝手に開いていき、キッチンの棚の扉が開いていろんな物が落ちる。

 揺れが収まった後、身体が震えている。

『何今の?』

 ベランダに出ると、眼下の外苑西通りの車は全部停車しシーンとしている。ツイッターで一斉にみんなが呟き出す。震源地はどこで、今一体どうなってる?テレビは持っていないから、ツイッターが1番の情報源だった。私には電話で安否を確認しなくちゃいけない人もいなかったから電話がどれくらい通じなかったのかは知らない。

 震源地は東北沖、、、、。すぐに原発が心配になり、その件のニュースを追いかけた。都内の人々は電車が止まって、帰宅できない人達が続出しているようだった。そしてベランダに出て下を眺めれば、続々と沢山の人たちが歩いていた。帰宅できなくなった人々がみんな今夜どうするかで一杯一杯の中、ホテルや公共施設のロビーを解放している情報などを見つけて、リツィートしたり情報を共有をしながら、同時に福島原発がどうなっているかを見守った。

 余震が止まず、いつ、また大きいのが来るかわからない恐怖と情報を得たい気持ちで、そのままツイッターとフェースブックの画面に張り付いていた。原発の冷却装置が作動しない、ということを知ったのは、多分、夜の早い時間だった。

 私は、メディアと政治と原発は繋がっているということを、80年代から本などを読んでいたのと、ある程度、原発がどういう物なのか調べていて、当時は原発反対もしていて、それについてブログも書いていたので、冷却装置が動かなければ、メルトダウンしてしまうということや、放射能の恐ろしさなどもある程度、分かっているつもりだった。フェースブックでそのことを投稿し、何人かと議論にもなった。「変な噂を流すな、東京電力はそんなこと言っていない、安全だ」「いや、冷却できなければメルトダウンだ」

 冷却装置を動かすために、夜の10時ごろ、やっとバッテリーを積んだ車がやってきたということで安心したのも束の間、プラグが違うかなんだかで作動出来ないという情報を見た。これらの情報を得たのはどこのアカウントだったのか覚えていないし、もしかしたら、先の投稿での議論中に誰かが言ったことだったかもしれない。今、検索して調べても事故の経過はこういう話の流れにはなっていない。

 とにかくその夜中の時点で、数時間後にはメルトダウンするかもしれないことが頭をよぎり、多分すぐには発表もされないだろうと眠れないまま朝を迎えた。いずれにせよ余震はずっと続いていたし、安心して眠れる状況でもなかった。

 世界中が日本で起きた地震災害を心配している中、朝に私を気遣って電話をかけてきたイビサの友人にそれを話すと「何やってんだ。今すぐ東京から逃げろ」寝不足で判断力が鈍っていた私は、ハッとしてそのままキャビンケースに簡単な着替えの荷物をまとめて、念のためにパスポートを持ち、午後になって実家のある金沢へ向かうため羽田空港に向かった。

 空港へ向かうモノレールを降りた頃から、テレビのニュースが目に飛び込んできた。福島原発で水素爆発。『やっぱりか、、、、』それを横目に私は早く飛行機が東京を飛び立ってくれることを祈り、一部の友人達に東京を今すぐ出るように促した。福島からなら2~3日は放射能物質は東京まで届かないようだ。ツイッターでそれも言ったけれど、多くが否定的で、恐怖を煽るなとバッシングされた。皆それどころじゃなかったのだ。

 深い怒りと悲しみと不安、気持ちは石のように重く暗かった。私の住み慣れた街が、東京が、皆が放射能に汚染されてしまう、、、。政府の発表は、最初から信じていなかった。直ちに健康には影響ないだって?現場近くの人達を安全圏まで避難もさせない政府に憤りを感じた。

 3週間ほどして、東京には戻らず、私は小さなスーツケースだけで関西空港からイビサに向かった。イビサの友人達が皆、面倒をみてくれることになっていた。当時よく知らない一部の人から「逃げた」と言われたりもしたけれど、自分を守れるのは自分しかいない。事故から1週間内に高濃度の放射能が雨によって東京に降っていたことが後から明るみに出たが、忠告をパブリックに行なったのだから、それを信じる信じないは人それぞれだし、それで行動するしないも個人の自由だった。関西や九州方面に少しの間だけでも避難していた友人達も結構いたし、その後、避難だけでなく地方や海外に移住した友人らも結構いる。同時に事故当初、福島へボランティアに行く面々もいた。寄付金以外に何か力にはなりたいという気持ちはあったけれど、放射能汚染のすざましいであろう場所へ自分自身が行くのは、申し訳ないけれど憚れた。今は大丈夫でも、その後に病気になるかもしれないリスクを抱えるのはどうしても嫌だった。

 あの時の状況と2020年~2022年のコロナの状況は、なんだか似ていたように思う。放射能とウィルスという二つの目に見えないものの脅威。放射能を危険とする人とそうではない人、コロナウィルスを信じる信じない、意図的にやられた、マスクをするしないで分断したりされたり、どちらかの意見を変えるように諭したり、ワクチン接種するしないで敵対したり、意見が違うことでヒステリックになる人もいたが、まるで原発事故の時の自分を見せられたようだった。コロナ禍では、行き過ぎた陰謀論信者に辟易し、少し距離を置くに至ったが、そんな風に過去、私も見られていたのかもしれない。”陰謀論”という概念があの頃の私にはなく、主要メディアは全て嘘だと信じていて、とにかく忠告しなければならないという”使命感”に駆られていたし偏った考えをしていた。友人や知り合いには、余計な被曝から身を守って欲しかったからお節介なまでに伝えたかもしれない。自分自身はあの後数年、東京へ帰った時は、いつも食材選びや食事の度にストレスを感じるのが嫌で1週間もいられなかった。

 こういう事を機に地方や自然の多いところに移住した人が多かった点でも、原発事故とコロナ禍は似ていた。ヨーロッパの都市からイビサへ移住してくる人が激増し、高騰する不動産の値段は更に上がった。


 
 そして、、、、。イビサに避難して来てしばらくしてから、私は東京にまだ残っていた友人に私のフラットの郵便ポストを見に行ってくれるように頼んだ。「スペイン大使館からビザ交付のお知らせが届いてます!」奇しくもその前年の2010年秋に、スペインのリタイアメント‧ビザを申請していたのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?