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48. 寝たきり

 1ヶ月が過ぎた後、肺炎は治ったということでその病院を出なくてはならす、’看取り専門’の病院へ移動となった。その間に一度自宅へ戻って良いと言われていたにも関わらず、直前に禁止され、結局、父が最後に自宅で過ごしたのは、私が3日間、家を空けた時が最後となってしまった。

 肺炎になったのは、多分、いずれかの介護施設で宿泊した際の食事の時、”誤飲”したのが原因だろうと思う。食べ物を喉に詰まらせた時、それが肺に行かないようきちんと背中を叩いてやらないといけないのだが、それらの点々とした施設で、介護士が全員にピッタリついて丁寧にやっているとは思えなかった。

 禁止されてたけれど「アイスクリームぐらい口に運んでやればよかったね」などと、後々お手伝いさんと悔やんだりもしたし、あの時、病院の言うことは振り切って、連れて帰れば良かったとも思う。今となっては、もうどうしようもないが、もしも今後の人生で、大事な人や自分がそうなった時、事なかれ主義の病院の言うことなぞ聞かず、本人が望むことをしたいと思っている。病院の中にいる寿命なんぞ伸びずともいいじゃないか。

 イビサの彼とは、今後どうするか、私たちがリレーションシップに入るのかどうかの決断を仰いでいた。彼は私のことをガールフレンドだと公に扱って「私のことを待っている」にも関わらず、リレーションシップに入る決断を出来ないという”矛盾”を抱えていた。リレーションシップに入らないのであれば、密に連絡を取る事もなく父のことが終わった時に、私はそのまま放浪の旅にでも出るつもりだったし、私のことを待っているのなら、離れていても精神的な絆を築き父のことが終わった後、イビサに戻る。ダメにするには悲しいには違いないが、正直どちらでも構わなかったし決めた方に進むだけだった。離れていれば忘れるのも容易い。「すぐに答えが出ないということは、なしなんだよ、それが答えだよ。素敵な時間をありがとう」と別れのメールを送った途端、つきあうから待ってくれ的なメールが来た。

 この彼は、とにかく何も決断できない性格だった。決断したとしても、あちらこちらに揺れる、毎日変化してしまうという性格で、最初それがどういうことなのか良く分からず、結果かなり振り回された。自分が相手との境界線を上手く引けていなかったことも要因だったとは思うが、いくら惹かれあっていてもエネルギー的に合わないという事もあるらしい。

 彼は、’ヒューマンデザインシステム’というチャートにかなり傾倒していて、そのチャートでは、はっきりと彼がそういう分裂気味な性格であることが示されていて「それはどうすることも出来ないし、そのまま受け入れるしかない」とのことだった。イビサに戻って付き合いが本格化した1年後、彼とのあまりの付き合いの難しさに、私の方がヒューマンデザインシステムの解析者に2人をリーディングしてもらい、2人は強く惹かれ合うけれど、とんでもなく難しい組み合わせでお互いを壊してしまう為、一緒にはいられないという事が明らかになってしまうという皮肉なオチだった。しかも1年以上にも渡って続いた不審な膝の故障は、彼と別れて間も無くして解消した。

 ヒューマンデザインシステムというのは、日本ではまだまだ馴染みが薄いが、ここイビサが発祥の地であり、創始者のラー‧ウル‧フがある日突然、1週間も続く自動書記にて、膨大な知識をダウンロードしたものだ。占星術、中国の易、カバラやヴェーダの知識が全て一緒になったようなもので今では世界中に広がっている。そのチャートの見た目や理論的なシステムからか男性の支持者が多いように思う。

 父は4月に入った頃に、とうとうトイレに立ち上がれず、そこをきっかけに寝たきりになってしまった。それを見た時が、私の中で”父が一度死んだ瞬間”でもあった。彼とリレーションシップに入るコミットメントはしたものの、今は父が寝たきりになりイビサに帰るのは何時になるのかわからない。しばらくして「いつになるか全く見えないから自分の生活に戻りなさい」というドクターからの一言はあったが、「あとどれくらいかかるか分からない」と伝えた時の彼の寂しそうな顔を見て、結局私はイビサに戻ることに決めた。

 『会いたいは会いたい。もしかしたら、この先ずっと一緒に人生を歩める人になるかもしれない。父がいよいよダメになるのが1ヶ月先なのか1年先なのか、誰にも分からない中、ここで毎日動かない父を見舞いに来るよりも、これから未来を築く人との時間を選んだほうが良いのでは?もしも何か父に異変があったり、死期が見えてきたらお手伝いさんか弟が連絡してくれるから、急いで帰ってくればいい、、』

 ゴールデンウィークが終わりに差し掛かった頃、いよいよ父を残して出発という時、私の中に少しだけ後悔が湧いていた。『このままここにいたい。父の側にいたい』もうほとんど父は赤ん坊の様だった。半分は眠っていて、髭を剃ってあげるととても気持ち良さそうで、毎日そうしてあげるのが日課だった。最後に見舞った日、髭を剃ってしばらく父の顔を眺めた。「お父さん、私行ってくるね」私は父への思いを振り切る様にして病室を後にした。

 少しでも後悔を感じるのなら止めれば良かった。もう少し父の側にいれば良かった。絶対、そういう心の声に従うべきだった。全ては今更、、だ、、。あんな大事な場面はもう二度とない。二度と戻らない。

 彼の誕生日に1日遅れでイビサに着いた。彼の誕生日を一緒に過ごしたかったが故の日程だった。間も無くして、彼の家で二人で住めるように、いろいろなものを片付けスッキリさせて、新しい生活が始まった。彼は二人で出来るレギュラーの仕事も見つけて来てくれて一緒にプレイしたり、彼自身は順調にギタリストへ仕事を移行していった。二人でビデオ素材を撮影したり、海に泳ぎに行ったりウォーキングに行ったり、介護疲れが溜まっていた私には、そういう普通の何気ない平穏な幸せや彼の包み込んでくれる温かさが、何だかんだ身に染みた。

 あっという間に2ヶ月半が過ぎた頃、スイス‧アルプス麓のフェスティバルに出演した際だった。自分の出が終わりネットの繋がるところまで行くと、どうやらお手伝いさんから連絡が入っていたようだった。彼女に繋がらないので弟に連絡をとると「容体が突然変わったけど、また持ち直したから大丈夫だ」ということだった。とはいえ気になって何度かお手伝いさんの方にも連絡を入れた。やっとタイミングが合って話してみると、何れにせよ「もう戻り時だと思いますよ」とのことだった。

 そのフェスティバルに来ていたスイス在住の日本人の友人が「このままスイスから帰国しなよ。その方がいいんじゃない?」とアドバイスをくれたが、危篤なわけではないし、フェスに来た荷物だけでは帰れないと考えて、帰国準備をするためにイビサまで戻ることにした。アルプスから空港まで夜中を過ぎての車の長旅で頭が冴えないまま、トランジット中に、一番早く着きそうな日本便を予約した。

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