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第1話 凶報【聖者の狂気】(小説)

-1- 凶報

『桜田公園に男の刺殺体 男女関係のもつれか』

席数22席の小さなバー、テネリタで店長を務める金居史明(かない ふみあき)は、開店前のカウンターの中で見たニュース記事に、スマホを持つ手が震えた。記事を掲載しているのは、有名だが、いい加減な記事を載せることでも知られるサイトで、ざっと全体を読んだものの、受け入れられなかった。

新聞で確かめようと電子版を開いたが、それっぽい記事は会員登録が必要で、金居は仕方なく、二軒隣のコンビニまで走り、数年ぶりに紙の新聞を買った。

「澪(みお)……」

店に戻り、新聞を開いた金居は、震える声で呟いた。
都内にある桜田公園で見つかった遺体は、八木沢雅紀(やぎさわ まさき)という27歳の男で、容疑者は不明、逃亡中と思われると書かれているが、金居は胃のあたりが重くなった。

店のオープンまであと30分ほど。仕込みは済ませてあるが、19時までバイトは来ないので、一人で回さなければならない。今日は木曜日だから、それほど混みはしないだろうし、普段なら問題ないが、気持ちが別の方向に向いてしまっている今、オープンを遅らせたい気持ちに負けそうになった。

幸いと言っていいのか、オープンから30分は客が来ないまま過ぎて、金居はカウンターに置いたスマホを、数分おきに確認した。送ったチャットに反応はない。やがて客が入ってきて、バイトが来て一時間ほどすると、席はほとんど満席になった。

「少し休憩してくる。何かあったら呼んで」

バイト二人に伝えると、金居はキッチンに引っ込んだ。丸椅子に座って、エプロンのポケットに入れたスマホを取り出す。

『桜田公園の刺殺体 容疑者の女を逮捕。
警視庁は14日の19時21分、桜田公園で死んでいるのを発見された八木沢雅紀さんを殺害したとして、八木沢さんと付き合いのあった猿倉澪(さるくら みお)容疑者を逮捕しました。猿倉容疑者は、容疑を認めているとのことです』

「どうしてこんな……そこまで追いつめられてたのか、なんで俺に連絡しなかったんだ……!」

奥歯が割れるほどの力が入って、思わず壁を殴りそうになって、振り上げた拳を勢いよく下ろした。

「はぁ、はぁ……」

ここ数日、澪と連絡が取れなかった。八木沢が強硬手段に出たのだろうか? そして耐えきれなくなって……いや、澪に限ってそんなことはない。おそらくは身を守ろうとしたのだ。悪いはすべて八木沢で……

頭の中に、見ていないはずのシナリオが生々しく浮かび、バイトに呼ばれていることに気づくのに数秒かかった。

「金居さん、大丈夫です……?」

バイトの一人が心配そうにキッチンを覗いた。

「ああ、ごめん……えっと、なんだっけ?」

「料理の追加オーダーです。若鶏のレモンペッパー」

「了解」

なるべく抑揚のない声で言うと、すぐに調理に取り掛かった。
体には力が入っていて、いつもより包丁も慎重になる。冷静さは残っているものの、今すぐに店を出て澪のところに行きたい衝動が溢れて、足がイライラと動き、外に行こうとする。

今すぐに、会って話がしたい……しかし警察に捕まってしまった今、話す術もツテもなく、自分の腕に抱えきれずにこぼれ落ちてくる感情がなんなのかも分からなかった。

なんとか仕事をこなし、何度もスマホを見て続報を確認し、返ってくるはずのないチャットを見ては、俯き、頭を抱え、歩き回り、丸一日何も食べずに過ごした。事件が発覚してから二日目は、オーナーに代わってもらって休みを取り、夕食は食べたものの、ほとんどはアルコールで、酷い頭痛と疲労を抱えたまま、三日目は店に立った。

「こんばんは」

17時過ぎ。
オープンしたばかりのテネリタに、一人の男が入ってきた。

「いらっしゃいませ」

いつもどおりに言ったつもりだったが、声に張りがないことは、自分でも分かった。顔もおそらく、影が多めだろう……金居は、俯きそうになる顔を上げたが、男は特に気にするふうもなく、カウンターに座った。

「生ビールを一つ。それと」

「……?」

「猿倉澪さんの事件について、お願いできますか?」

男はそう言って、カウンターの上に名刺を差し出した。

金居は動揺を隠せず、外から分かるほど、一瞬肩を上げた。

「おまちください」

自分を落ち着かせるように、考えることなくビールを注ぐと、コースターの上に置いた。

「曽我部さん、ですか」

名刺には、朝丸新聞社会部、曽我部凛太郎(そがべ りんたろう)と書かれている。朝丸新聞といえば、大手新聞社の一つで、全盛期に比べて部数は半分以下になったと言われているが、一定の影響力は保っている。ネットの記事といっても、新聞を元ネタにしていることも多く、組織としての取材力があるのも確かで、嘘ばかり書いている印象はあるが、実際にはしっかりとした取材に基づいた事実記事も書いていて、新聞なんて……と一蹴できない力はある。

「そんな緊張なさらずに」

曽我部は笑って、ビールを二口飲んだ。
カーキ色のパンツに、白いシャツとベージュのジャケットを着ており、シャツはしっかりとアイロンがけされていて、シワ一つない。紳士的に見える、というより、紳士を装っているが、細い目と、仮面のように固定された笑顔は、どこか不気味さがあり、金居は心を許してはいけないと感じて、体が固くなった。

「事件のことで、ちょっとお話をしたいだけです」

「私は何も知りませんよ」

金居が少し顔を逸らしながら言うと、曽我部は、

「でも彼女のことは知ってる。そうでしょ? 金居さん」

確信しているように言った。

「さあ……」

「警察の取り調べはすでに始まっています。私のツテを使って聞いたところでは、彼女はそう、なんというか、何か隠してるようです。でもねぇ、私たちが調べても、中々これといった情報が出てこなくて。だからもし、知ってることを話してくれるなら、力になれるかもしれません」

「力になれる? あなたが?」

「彼女を助けたいでしょう? そのためには情報がいります。このままでは最悪の場合、彼女は死刑になるかもしれない」

「死刑!? そんな馬鹿な! 八木沢みたいなクズを殺したから死刑なんて……!」

「ほら、やっぱり知ってるんでしょう? 彼女のこと」

「あ、いや……」

「今すぐに何かって話じゃないですよ。その気になったら連絡をください。ただし、のんびりしてる暇はないと思うんで、よく考えて」

曽我部は名刺を押し出すように、金居の前に滑らせると、ビールを飲み干して勘定を済ませ、出ていった。

澪が死刑になる……

そんなはずはない、曽我部の嫌がらせだ……そんな考えが浮かんだが、曽我部が金居に嫌がらせをする理由がないことは、金居自身が一番分かっていた。朝丸新聞の報道に問題はあるものの、今回の事件には政治的要素はない。

「……」

あれこれと考えているうちに、次の客が入ってきて、金居は名刺をポケットに入れると、仕事に戻った。

-2-

「金居さん……」

猿倉澪は、留置場の布団の中で目を閉じたものの、眠ることができずにいた。体も心も疲れ切っていて、座っている気力もないほどなのに、目だけは冴えていて、夢の中に落ちていくことを許してくれない。

『状況はだいたい分かったわ。それで、あなたが八木沢に脅されて、今回の事件に至ってしまった理由、その証拠とも言えるものが、金居さんという人に渡したSDカードに保存されてるのね?』

取り調べを担当する前山悠子(まえやま ゆうこ)という捜査一課の女性は、刑事ドラマであるような、咎めたり脅したりするようなことはなく、澪の言葉を一つひとつ丁寧に聞き、話を引き出してくれた。

SDカードについても、金居に確認すると言ってくれたことが嬉しく、殺人犯として警察に勾留されているという状況にも関わらず、恐怖はそれほど強くなかった。同じ女性だからというのもあるだろうが、どこか安心感があり、これまでの恋愛についても全て話した。

取調室という、狭く、無機質な部屋で、刑事と対面しているという状況は好ましくはなかったが、想像していたよりは遥かにマシだったし、これまでの苦しかったことを話すのも、思ったほど苦痛ではなかった。

以前、金居に話したときは、恥ずかしさや苦しさが強くて、あまり余裕はなかったが、思えばあのときも、話した後は気分が軽くなった。金居に知られたくないようなこともあったが、すべてを受け止めてくれるような表情と相槌を見ていると、大丈夫と思えた。

悠子に対するのは、それとはまた別なのだと、感覚的には分かっていたが、それでも、苦しいこと、人に知られなくないことを話すことは、隠すよりいいのではないかと思った。

「……」

疲れ切ってはいるが、落ち着いてもいる。
なのに眠ることができない状況に、澪は、母親のお腹にいる赤ちゃんのように体を縮めた。

正当防衛だと証明できるだろうか。理由はどうあれ、殺人をしてしまった自分を、世間は受け入れるだろうか……そんな考えが浮かんでは消えたが、そもそも誰かに受けいれられたことなどなかったのではないかと思えて、肺のあたりに締めつけられるような痛みを感じた。

「金居さん……」

その名前を呟くと、不思議と心が安らぐ。
誰にも受け入れられたことがない……その例外が、金居だった。媚を売るように接しなくていい、無理しなくていい、自分を犠牲にするようなことはしなくていい……金居は、それをハッキリと言葉にしたわけではないが、それでいいと感じさせてくれる。

もしできるなら、刑務所を出ることができたら、金居とやり直したい……
考えたわけでもなく出てきた想いに、澪は少し、顔の温度が上がるのを感じた。だが、金居もそう思ってくれているかは分からないし、もし思ってくれていたとしても、今回のことで消えてしまったかもしれない。

生きる理由を与えてくれる明かりが消えかけたが、完全に消えることはなく、ゆらゆらと、心の中で揺れている。ずっと願っていたこと、ちっぽけでも、努力もしてきた。人生を変えて、幸せを掴みたい、小さくていいから、幸せと感じる時間を……

ようやく頭の中が落ち着いたせいか、徐々にまぶたが重くなり、布団に入ってから一時間ほどすると、部屋には寝息だけが残った。

-3-

静まり返った捜査一課のデスクで、前山悠子(まえやま ゆうこ)は情報を整理していた。目の前にはノートパソコン、右斜め前には冷めたコーヒーが三分の一ほど残ったカップ、その横には一口サイズのチョコレートの箱がある。それ以外は普段から持ち歩いているB6サイズのノートが置かれているだけだが、モニターの中は、複数のメモ帳、文書ファイルにPDFなど、いくつものファイルが開かれている。

「正当防衛にしてあげたいところだけど……」

ため息混じりに呟き、大きく伸びをすると、縁無しメガネを外して机に置いた。
澪の話を聞く限り、八木沢という男は殺されても文句が言えないような人間に思えた。とはいえ、感情面がどうであれ、採用すべきは証拠であり、証拠がなければどんな人間であっても裁くことはできない。

「……」

冷めたコーヒーを飲み干してから、メガネを取ってモニターに視線を戻す。

澪は、八木沢と半同棲状態で、日常的に暴力を振るわれていた。そういったDVの場合、通常は、緊張形成、爆発、開放の三段階の流れを経て、緊張形成に戻るという流れが繰り返される。加害者が、何かしらの理由で苛立ちを見せ始めると、被害者は加害者を刺激しないような言葉や行動をするようになる。この段階でも、加害者の苛立ちは、八つ当たりや軽い暴力で現れることがあるが、被害者は爆発までいかないことにホッとする一方、いつそうなるか分からない状況で強いストレスに晒される。

そうして緊張は高まっていき、何かしらの出来事がトリガーになって爆発すると、加害者は激しい暴力を振るう。加害者側も、自分の行動を抑制することができず、被害者にとっては命の危険を感じる段階となり、長いときは、一週間以上も続く。

やがて落ち着くと、開放を迎える。ハネムーン期とも言われる開放は、加害者がすべての怒りを出し切ったように、急に優しくなり、自分がしたことを謝罪し、「愛してる」などの言葉を頻繁に使うようになる。二度と暴力を振るわない、自分は変わるなどと口にするのもこのときで、被害者はその変貌ぶりに混乱しながらも、ようやく訪れた安息に身を委ね、甘美な時間を過ごす。

しかし当然、それも長くは続かず、日常生活の様々な出来事から、ふたたび緊張形成に戻り、三段階が繰り返される。

八木沢も、暴力を振るって数日経つと、涙を流しながら澪を抱きしめて、「愛してる、二度としない」などと口にしていたという。
そんな男とは別れてしまえばいいと、第三者は思うものだが、DVする男と付き合う女性は、そういう男を引き寄せてしまう考え方をもっていることが多く、「彼を変えてあげられるのは自分しかいない」などと考えて、離れることを拒否することも珍しくない。

澪も、最初はそうだったようだが、彼女は少しずつ自分を変えていった。その変化は、正しい方向に向かっていた。だがそれゆえに、八木沢は、澪が自分から離れていくことを予感して、軟禁状態にした。耐えきれなくなった澪は逃げ出したが、八木沢はそれを許さず、事件へと至った……澪の証言をそのまま信じるなら、そういう流れになるし、矛盾も違和感もなかった。

(八木沢の関係者に話を聞くのはもちろんだけど、最優先は金居が持ってるらしいSDカードね)

何度か証言を読み直し、情報を整理すると、時計の針は23時を回っていた。そろそろ帰らないといけない、明日も早い……そう思ったが、まだ何かできることがあるのではないかと思えてくる。

立ち上がった体をもう一度椅子に戻してみたものの、やはり今できることはなく、ため息混じりにパソコンの電源を落とした。

(これから帰って、12時過ぎ。お風呂に入って寝て、明日は……)

「遅くまでお疲れさま、前山くん」

完全に自分の世界に入っていたせいか、悠子は思わず、「わぁ!」と声を上げてしまい、顔を逸した。

「すまない、脅かすつもりはなかったんだけどね(笑)」

「有栖川警部……まだいらしたんですね」

姿勢を正すと、有栖川は微笑みを浮かべて、

「もっと楽にして大丈夫だよ。私はそんなに緊張する相手じゃない(笑)」

と言った。

有栖川英徳(ありすがわ ひでのり)は、警視庁捜査一課の警部で、その立場からは想像もできないほど物腰が柔らかく、部下に対する思いやりがある。それでいて、上にもしっかりものが言えるため、信頼も厚い。事件解決率も高く、警察と捜査協力の契約している稲城京介(いなぎ きょうすけ)という探偵とも懇意で、警視庁内では、二人が協力すれば解決できない事件はないと言われている。

「硬いですかね、私……」

「うん、少しね。でも、事件に対する姿勢は素晴らしいと思うよ。ただ、休息はちゃんと取ったほうがいい。こういう仕事だから、休めないときがあるのは確かだけど、いつもそれじゃあ、もたないからね」

「はい、そろそろ帰ります」

「うん。じゃあ、お疲れさま」

「お疲れ様です……あの、警部はまだ仕事を……?」

「うん、ちょっと私の理解を越える事件が起きていてね。まだ調べることがある」

「私に手伝えることは……」

悠子が言いかけると、有栖川は首を横に振った。

「前山くんには、自分が担当してる事件がある。そっちに集中したほうがいい。気持ちだけは、ありがたくいただいておくよ」

有栖川は、「いただきます」のように両手を合わせて笑うと、自分の席に座って仕事を始めた。悠子はもう一度、お疲れ様ですと頭を下げて、部屋を出た。

「雨……」

外に出ると、月と星を隠した雲から、ポツポツと雨が落ちてきていた。幸い、まだ降り始めのようで、傘は必要ない。
早足で歩き、いつものビジネスホテルに足が向きかけたが、立ち止まり、回れ右をした。明日もやることは多い。本当にいいの? もっと頑張らないと……頭の中に浮かんだ、休ませまいとする言葉はそのままに、自宅へ向かった。

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