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最近読んで面白かった本。「ファンタジーの秘密」他。

最近読んで面白かった本を挙げていく。

・ファンタジーの秘密/脇明子

不思議の国のアリス/鏡の国のアリスを翻訳してきた著者の、ファンタジーについてのいろいろな考察。
著者はファンタジーの根幹の条件には不思議さの気配が必要と考えている。
その不思議さの気配とはなんなのかを定義するのが今作の狙い。
不思議さの気配とかいうあやふやなものが、読み手側の感想ではなく、作品の内に客観的に存在していることを示そうということ。
1章では魔法
2章では善と悪、そして悪を凌駕する闇
3章では時間
4章では枠物語だったり夢だったりの重層性
5章では物事に意味を見出そうとする働きとしての象徴
についてそれぞれ、ファンタジー作品群の歴史と絡めて論じている。(「この作家のこう言う試みを、後世のこの作家が継承している」みたいな感じ)
1章では物語の歴史の中で魔法がどう登場し、衰退し、復活したのかを論じていた。

ここで紹介された「エヴリデイマジック」の概念が面白い。合理主義の中で生まれた魔法で、1日1回願い事を叶え、後には何も残さず、登場人物は「願い事なんてしなければ良かった」と後悔する。本書では魔法を陳腐化させたと否定的に紹介する。
個人的にはこの概念を聞いて「ドラえもん」を連想した。

2章で論じられている、「ナルニア国物語」の表面的な問題のなさの裏に見える闇、みたいな部分は、後で紹介する「異人論」のなかでも形を変えて論じられていた。
3章で紹介されたサトクリフの「ともしびをかかげて」のラストはめっちゃ面白そうだった。

と、部分部分では面白かったんだけど、結局ファンタジーの不思議って何なん?って問いには明確な答えが返ってこない。

まあ冒頭で前もって「不思議さを掴めたかどうかはあんま自信ないです」って言ってたので、ガッカリという感じはしない。面白い本だった。

読みながらとったメモはここ。

・読者に憐れみを ヴォネガットが教える「書くことについて」/カート・ヴォネガット&スザンヌ・マッコーネル 

ヴォネガットの教え子が彼の創作論を批評しつつ、自分と彼との交友録なんかも交えてヴォネガットという人物を詳らかにしていく。みたいな感じ。
そんなに面白くはなかったけど、著者がヴォネガットのことを好きすぎてウケた。
あと所々で著者のメンヘラ的一面が顔を覗かせていた。(「私を見捨てないで」ってヴォネガットに手紙を送ったり。)

冒頭、但し書きのように「ヴォガネット万歳に陥らないようにする」と言っていたが、陥っちゃってない?とは思った。
しかし読んでいるうちに但し書きの意味が分かってきた。流布しているヴォガネットの創作論の、足りていない部分を付け足し、文脈と切り離された結果間違って捉えられかねない部分に補助線を引き、間違っている部分は訂正する。
その上で彼の著作や彼自身には万歳賛頌を送る。これはそういう本だ。

・異人論/小松和彦

神田古本まつりでパラ読みしたら面白そうだったので、その後図書館で取り寄せて読んだ。
異人(山伏だったり座頭だったりの余所者)についての伝承から、民族社会が異人達に対してどんなイメージを持っていたのかという、民族社会の心性に迫ろうという本。

1章では異人殺しのフォークロアをまとめた「異人の民俗学」
2章では女性の異人性についてと、伝承からの主題の取り出し方についての「異人の説話学」
3章では「マレビト」という概念の取り扱いについての「異人の人類学」
4章では「異人論の展望」として妖怪と異人の関係
について書かれていた。

各論は面白いんだけど、しかし、僕が人文系の分野に疎いこともあって、これらの民俗学、説話学、人類学という区分けが適切に機能しているのか分からなかった。と思ったら後書きで

本書は『異人論』と題されているが、現在のところは、本書に収められた論稿が「異人」というキー・コンセプトによって相互に関連づけられているということを、本書の編集を通じてようやくはっきりと私自身が悟ったという程度のことしか意味していない。

『異人論』p265より

と書いてあってずっこけてしまった。先に書いとけよ。
個人的に面白かったのは1,2,4章。それぞれ面白かった部分を要約して書いていく。

1章
「異人によって富をもたらされた家が、その異人を殺すことで没落する」
こんな感じの異人殺しの伝承から、異人という他者が、民族社会の内部の論理だけでは説明のつかない事象(ある家が急に金持ちになったり、奇形児が生まれるようになったり)に説明をつけるために利用されていた可能性を読み取れる。
民族社会は異人を拒絶していたのではなく、異人を利用して社会の矛盾を解消していた。異人は行為のレベルでも、象徴のレベルでも利用され犠牲になっている。

2章
折口信夫は、山姥のイメージは山神に仕える巫女のイメージが零落したものと考えていた。
山姥の出てくるような物語において、山と村は同質の空間ではないものの、2つの空間は互いに関連し合っている。というのは、村での秩序の状態が、山中での出来事に関係してくる。(村でいい奴だった人間は助かる。嫌な奴は死ぬ)
このことと、山神が女性神の形を取ることから、筆者は民族社会が女性を文化の周辺に排除しようとしていたんじゃないのか?と考える。
つまり、山姥だったり女性神としての山神だったりは、民族社会が女性を異人的に扱ってきたことの証左である、的な。
そしてその理由は女性にだけ備わった「生命を産む」という能力の不可解さに怯えていたんじゃないのか?と。

あと伝承から主題を抜き出すという部分は「主題って言葉の定義をはっきりさせようよ」程度のことで正直あんま面白くはなかったんだけど、試しに「猿婿入」という昔話から主題を抜き出した結果浮かび上がってきた異人への殺意、とかは面白かった。
物語の裏に潜む闇を暴こうという試みは、先に紹介した「ファンタジーの秘密」でも、「ナルニア国物語」に対して行われていた。

4章
異人とは民族社会の人々にとっての、社会関係上の他者。一方の妖怪とは人々の想像によって生み出された他者。
妖怪の特徴としてこの本では以下の四つを挙げている。
1.祭祀されない超自然的な存在。
2.異類異形の存在。
3.外のカテゴリーの属しているがために恐怖を引き起こすもの。
4.人間に対して憎み、嫉みというようなものを持っていて、それが原因で厄災をもたらす。

妖怪と結界について。
村の周りにしめ縄を張っているならそれで充分なのでは?しかし玄関だったり神棚だったり至る所に結界が引かれている。
これはつまり、境界線をどこで引くかによって内と外は変化していくため。
村人を「我々」と括る場合もあれば、家族を我々と括る場合も、自分を私と括る場合もある。
なのでそれぞれの場合に適した結界が必要。(ということではないかと筆者は考えている)
妖怪空間の可変性は社会カテゴリーの可変性と対応して捉えることが可能で、ここから、妖怪の目録を作るときなんかに、この妖怪はなぜここに現れるのかといったことを組織的に理解できるのでは?というような展望が書いてあった。

雑記

ファンタジーが好きなので、「ファンタジーの秘密」が読んでいて1番面白かった。
フーコーとウィトゲンシュタインの入門書を借りてきたので、気が変わらなければこれから読むと思う。

昨日サークル時代の友人とひさびさに話した。別の集まりでポケモンの対戦会があるので、いろいろ教えてくれということだった。
彼はここ一年?それ以上?音沙汰なしだったので、周囲に結構心配されていて、以前他の友人に
「もし話すことがあったらあいつが今何してんのか聞いといてくれ(ちゃんとしてないお前になら答えやすいだろうから)」
と頼まれていたんだけど、そのことを通話が切れた後で思い出した。
まあ元気そうだったので良いかな。

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