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怪物/是枝裕和監督

是枝裕和監督が2018年に「万引き家族」でパルム・ドールを取った時、多くの人が映画館に足を運んだと思うが、受賞はキャリアの転機ではあるにせよ、必ずしも映画祭の大賞が本人の最高傑作となるわけでもない。その後は、カトリーヌ・ドヌーヴとジュリエット・ビノシュの主演の「真実」(2019)、ソン・ガンホらをキャスティングし製作も撮影も韓国で行った「ベイビー・ブローカー」(2022)と、活躍の場を広げてきたわけだが、久々に現代の日本を見据えた新作「怪物」は、まさに傑作の名にふさわしい作品である。

カンヌで脚本賞を受賞した本作は、まずは坂元裕二の脚本について特筆すべきなのかもしれない。ドキュメンタリー・報道出身で完璧主義者の是枝監督が、ともすれば単線的/ロードムービー的な物語構造を求めがちであるのに対し、坂本の脚本は、是枝作品にダイナミックな「動き」を与えてたことは間違いない。とはいえ、映画は全編に渡って是枝監督らしい精緻な感情の揺れも湛えてもいる。脚本を坂本に委ねてしまうことで、監督の演出に余裕が生まれたことが、結果として映画により大きく働きかけたたと自分はみている。

1.
真っ黒く沈む湖の輪郭を取り囲むように、街の明かりが広がっているのが見える。湖畔にあるこの地方都市が物語の舞台である。

クリーニング店で働くシングルマザーの麦野早織(安藤サクラ)は、小学5年生の息子の湊(黒川想矢)と二人で暮らしている。ベランダで雑居ビルの火事の様子を眺めていると、湊が奇妙なことを尋ねてきた。「豚の脳を移植した人間は、豚なの?人間なの?」

担任の保利(永山瑛太)から「豚の脳」と罵られ、また暴力も振るわれたのだという。驚いた沙織は学校へと向かうが、煮えきらない校長(田中裕子)の対応と、形ばかりの担任からの謝罪に戸惑うばかりである。さらに保利からは、逆に湊がいじめをしていると指摘され、疑心暗鬼に駆られた沙織は、同級生の依里(柊木陽太)を訪ねることにした。

2.
沙織の視点から描かれた第一幕から一転し、次の第二幕では担任の保利を通して事件が描かれることになる。

新任の保利は、自分が担任をするクラスのギクシャクとした空気に気づき始めている。体が一番小さい依里がいじめられているようなのだ。依里は父子家庭で、父親(中村獅童)は、依里のことを豚の脳みそを持った「化け物」だというのだ。いくつかの根拠から、保利はいじめをしているのは湊だと断定する。時を同じくして、湊の母親が学校に保利を訪ねて来ていることを知る。

3.
物語は既に齟齬を孕み、軋みながら進んでいる。第三幕では湊の視点で語られ、そこで初めて湊と依里との関係性が明らかになる。クラスの男子たちからいじめを受ける依里を、初めは遠巻きに眺めていた湊だったが、彼を庇ったことから仲良くなり、依里の「秘密の場所」に招かれる。廃線となった鉄道のトンネルと、その先に打ち捨てられた車両を基地にし、そこで2人だけの親密な時間を過ごすようになる。「怪物だーれだ」というのは2人のゲームであり、合言葉でもある。自分には見えないカードに描かれた「怪物」を、相手への問いを通して「当てっこ」するのだ。「怪物」について、自分の中の「怪物性」についての問いなのだろうか。

敷かれた伏線をひとつひとつ回収しながら、物語は結末に向けて進んでゆく。例えば沙織が学校の廊下で聞いた、また保利が学校の屋上で聞いた、その不穏な響きの「音」についても、物語が三度繰り返される時、その答えが明かされる…。自分の感情の芽生えに気づき戸惑う湊と、彼の異変に気づいた校長がそこにいた。

思い返してみれば、沙織は、湊が結婚し「普通の」家庭を持つまで頑張ると言った。また担任の保利は、ピラミッドの下段で支える湊に「男らしさ」を説いていた。保利はその言動に疑いもないし、沙織にしてもどうして湊が、車から飛び降り走り出すという突飛な行動を取ったのか理解できない。いずれも「無意識に」自分の性規範を「普通」だと思っているわけだ。

嵐が吹き荒れる中、湊と依里の二人は忽然と姿を消した。そして…。

今年3月に亡くなった坂本龍一がこの映画の音楽を担当したことでも話題になった。映画のクライマックスで使われたのが、アルバム『BTTB』に収録された「Aqua」である。おそらく是枝監督の中で、初めからこのシーンに充てると決めていたと思われる。美しく、強く、繊細なこの曲を聴きながら、物語を振り返ること。希望を語ること。

「怪物」は脚本賞と同時に、2010年に創設されたクイア・パルム賞も受賞している。過去の受賞作と比べそれが「曖昧」であるとの批判もある。ただ敢えていえば、受賞が批評性を持つかは、この日本という国と社会の成熟度に委ねられているということではある。誰も断罪しないのが是枝映画の描き方だ。最終的には、依里の父親でさえも、是枝監督は悪人にはしなかった。そこをまずは考えてみる必要はある。

監督:是枝裕和  
出演:安藤サクラ | 永山瑛太 | 黒川想矢

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