小説「アインシュタインに笑われる」第1話

あぁ、一刻も早く帰りたい。
オフィスで上司の叱責を受けながら、僕はそう思った。椅子のリクライニングをめいっぱい利用してのけぞり、机の上に足を乗せた姿勢で、40代前半の上司・山上が言う。
「お前の企画書にはさ、客が見えないわけ。誰がこの商品のためにカネを払うの?ん?説明してみ?」
家電メーカーに務める僕は、高齢化に伴い毎週のように高齢者向けの健康器具の新商品企画書を提出するよう義務づけられていた。
「ですから……60歳以上の健康に不安を抱えている男性なら……」
僕の言葉を遮って、山上は「つまりさ」と、強引に話を手繰り寄せた。
「何年目なの?お前。もう10年目くらいじゃない?それなのに満足な企画書も書けずに、口頭で補足説明しなくちゃいけないような状況がダメって言ってるわけよ」
僕はまだ、新卒でこの会社に入って7年目だ。部下のプロフィールもろくに覚えてないこんな人間が、客の気持ちをはかった企画書を書ける人間とは思えない――喉元まででかかった言葉を、僕はぐっと飲み込む。
「とにかく。『俺が読める企画書』を書けるオトコになっとけよ、明日までにさ」
そういいながら、山上は席の脇に置いていたリュックサックを気だるそうに持ち上げて、オフィスを出て行った。
本当に、山上とは反りが合わない。彼の一挙手一投足が癪にさわるし、説教の内容に一貫性が無いのも気にくわない。なんだ、最初は企画書の中身のダメ出しだったはずなのに、途中から僕の人格批判になっているじゃないか。
あいつのせいで本当にストレスがたまる。説教の最中には、手に持っていたボールペンを折りたくなったことが何度もあった。毎日毎日叱られて、本当に嫌になる。

まったく、なんと【ありがたい】ことだろう。おかげで今日も旨い飯が食えそうだ。

山上がオフィスを出た後、僕は奴と駅で鉢合わせないよう、少し時間を置いて会社を出た(通勤に使っている電車が同じだから、下手するとホームではち合わせる可能性があるのだ)。会社を出てから大通り沿いにしばらく歩き、駅から地下鉄に乗って最寄り駅まで帰る。巣鴨駅で下車すると、普段は駅前で適当に牛丼なんかをたべて夕食を済ますのだが、毎週金曜日は違う。南口のロータリーに沿って牛丼屋を通り過ぎ、パチンコ屋の脇を抜けて、突き当たりにある3階建てのビルに入る。そこでは、20代前半であろう、若い女性がややタイトめな制服姿(制服とは概してタイトなのかもしれないが)で出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。会員証はお持ちでしょうか?」
女性が嫌みの無い笑顔で言う。
「ええ、あります。今日も買い取りで、全部使っちゃってください」
僕がそう言うと、女性は「かしこまりました。ただ今お待ちのお客様がいらっしゃいませんので、すぐ施術できます。奥へどうぞ」
そう言われて、僕はロビーの脇にある、金属製のやや重たいドアをギギと押して、施術室に入った。室内にはベッドとテーブルがひとつずつ置かれており、テーブルの上にはヘッドギアが一つ用意されている。ヘッドギアからは5本くらいのケーブルを一つに纏めたものが延びており、壁の中へと消えている。
「【装置】の本体は、壁の奥にあるんです。かなりサイズが大きいので、別室に【装置】を置いて、そこからケーブルを延ばしているんです」
いつだったか、施術が終わった後に受付の女性に訪ねたとき、そう説明されたことを覚えている。
ベッドに腰掛けて待っていると、センセイがいつもの白衣を着て現れた。
「じゃあ片岡さん、早速はじめましょうか。ヘッドギアを被って横になってください。目をつぶって。一瞬で眠くなりますからね……」
その直後、僕はすぐ意識を失った。

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「終わりましたよ」
センセイのいつも通りの、抑揚のない声で目を覚ますと、施術室の白い天井が見えた。
「今回は2013IFPも貯まってましたよ。一週間で2000を超えるなんて、片岡さんぐらいなもんです。ずいぶん、お仕事大変なんですねぇ」
そういってセンセイは僕に、隣室にある【装置】から印字されたであろう検査結果表を手渡した。
「はい、でもそのおかげで今の僕は豊かな生活ができるんです。今日もありがとうございました」

頭がすっきりした僕は、受付で検査結果表を手渡す。
「今週はレートが1IFPあたり200円ですので、40万2600円での買い取りになります。よろしければこちらにサインをお願いします」
いつもより約10円高いレートに、僕はもちろんサインした。普段は金を銀行に振り込んで貰うことにしているが、今日はなんだか「がんばった実感」を得たくて、現金で受け取ることにした。
月給を優に超える金額が入った封筒を握りしめ、そのまま駅前の焼肉屋で一人晩餐会を開くことにした。施術後は【当然晴れやかな気持ちになる】ものだけれど、今日はまた一段と心が軽かった。

人間が持つ負の感情――その原因であるストレス物質を脳内で分解し、エネルギーとして取り出す技術が確立されたのが今から20年前の話だ。ストレス物質は膨大なエネルギーを持ち、それが暴力など物理的な運動へと繋がるらしい。だから、「負の感情」ではあるものの、エネルギーとしては「正」が取り出せるようだ。僕は大学時代工学を学んでいたが、そのあたりの詳しい理屈はあまりよくわからない。
そこから【装置】が商業用として普及するまで10年の歳月を要した。「感情売買法」が成立し、負の感情をIFP(=Irritation and Frustration Point、激昂・不満指数)として数値化することで、電力会社やゼネコンなどエネルギーを必要とする企業に売却できるように法整備されたのがここ5年の話である。負の感情を取り出した人間は、ストレスの原因物質が脳内から除去されるわけだ。そのときの晴れやかな気持ちは、また新たに原因物質が生成されるまで続く。感情売買によって、うつ病患者はいまや絶滅危惧種と言えるほど減少した。

社会人3年目の年、つまり「感情売買」が合法になってから、僕は仕事で貯まったストレスを、毎週金曜日にまとめて換金している。おかげで僕は33歳にして、ローンを組むことなく、都心の一等地にマンションを買うことができた。

「幸せだなぁ。理不尽に耐えた甲斐があったってもんですよ」
焼肉屋で一人ソファ席に腰を下ろした僕は、独り言を言いながら、普段は頼まない1人前3000円もする高級な肉を口元へと運んだ。

この身の丈に合わない贅沢が、僕の小さな幸せの始まり――そして、大きな不幸の始まり。

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