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絵に絵として反応する: ジェンドリンとランガー

私たち人間は、動物とは異なり、絵の中の猫を撫でようとは思いません。ジェンドリンが『プロセスモデル』 (Gendlin, 1997/2018) で論じているように、絵に絵として反応することは、あたかも猫が実在するかのように行動することとは異なるのです。状況の中で行動することなしに状況を処理することは、物事をシンボルとしてとらえる能力、すなわち、「~について (アバウトネス) 」と呼ばれる人間の能力とどのように関係するのでしょうか。この関係を彼の他の哲学論文「パターンを超えて思考すること (Thinking beyond patterns) 」 (Gendlin, 1991) や彼に先行する哲学者スザンヌ・ランガー (1895–1985) の著作を参照しながら私は考察しました。


絵と動物

『プロセスモデル』VII章Aの「(g) 絵 (pictures)」の節においては、「動物は何かの絵には反応しない」 (Gendlin, 1997/2018, p. 125; cf. ジェンドリン, 2023, p. 210) ことが詳細に論じられていますが、これは’73年の時点で萌芽的にではありますが既に論じられています。その前に、ランガーの先行研究を見てみましょう。

獣はシンボルを読まない。だから絵を見ないのである。…犬が私たちの絵を軽蔑するのは、絵ではなく色のついたキャンバスを見るからだ。犬は猫の絵画で猫を思い浮かべない。 (Langer, 1942/1957, p. 72; cf. ランガー, 2020, pp. 150-1)

ランガーの見解をジェンドリンは継承し、’70年代以降、粘り強く考察を続けます。

動物は絵には反応しない。猫は猫の絵に対して、平らな厚紙の対象として反応する。もし猫が絵の猫の側面にまったく反応しないとしたら、本物の猫として反応するだろう。動物は絵に絵として反応する術を持たないのだ。 (Gendlin, 1973, p. 374)

純粋な視覚に反応するのは人間だけである。私は絵に絵として反応し、山にいるのではなく、部屋にいることを見失うことはない。 (Gendlin et al., 1984, p. 261)

何かを見ること、そしてそれを視覚「だけ」として捉えることは、普通の出来事よりも複雑である。山のイメージを見ることは、山を見ることであり、なおかつ、それが厚紙であることを見ることでもある。 (Gendlin, 1986, p. 151; cf. ジェンドリン, 1988, p. 181)


人間にとっての絵: 「部分間の比率」とパターン

‘70年代前半のジェンドリンは、動物が絵に絵として反応できないことを論じていましたが、反対になぜ私たち人間が絵に絵として反応できるのかまでは、具体的かつ明確には論じていませんでした。この点を再びランガーの哲学を引き継ぎながら考察するのが、’90年代初頭に公刊された論文「パターンを超えて思考すること」 (Gendlin, 1991) です。この論文では、のちの『プロセスモデル』VII章Aの「(g) 絵 (pictures)」において、「絵に反応することと、絵に描かれた対象があたかも存在するかのように行動することとは異なる」 (Gendlin, 1997/2018, p. 125; cf. ジェンドリン, 2023, pp. 210-1) と結論づけられていることの根拠がより詳細に論じられています。

ランガーと’90年代のジェンドリンによるパターンの考察をつなぐのは、絵が持つ「部分間の比率」という特徴です。まずは、ランガーがジェンドリンに先んじて人間が絵を知覚するとはどういうことかを具体的に論じているのを見てみましょう。

(Langer, 1942/1957, p. 69)

たとえば、69ページの子供っぽい輪郭の絵 (Fig. 1) は、すぐにウサギだとわかるが、実際にはウサギとは似ても似つかないので、ほとんど目の見えない人でも、開いた本のページの上にウサギが座っていると一瞬でも思うことはできないだろう。この絵が「実物」と共通するのは、「耳」の位置と長さ、「目」の位置、「頭」と「身体」の関係など、ある一定の部分間の比率 (proportion of parts) である。その横にあるのは、耳と尻尾が違うだけの全く同じ図 (Fig. 2) であり、子供なら誰でも猫だと思うだろう。けれども猫は丸太い尻尾をした短耳のウサギのような姿ではない。また、白くて平らで、紙のような質感を持っているわけでも、黒い輪郭がぐるりと一周しているわけでもない。しかし、絵に描かれた猫のこうした特徴は、すべて重要ではない…。 (Langer, 1942/1957, pp. 68-9; cf. ランガー, 2020, pp. 145-6)

対象を描出するために、絵にはどのような特徴が必要だろうか? 対象の視覚的外観を本当に共有しなければならないのだろうか? もちろん、高度なレベルで共有する必要はない。…絵は対象よりもはるかに大きくても、はるかに小さくてもよい。 絵は確かに平らである…。このような自由度がある理由は、絵は本質的に描出するもののシンボルであって複製ではないからである。 絵には、対象のシンボルとして機能する、特定の顕著な特徴がある。 (Langer, 1942/1957, p. 68; cf. ランガー, 2020, pp. 144-5)

ジェンドリンも、右側の猫だけではありますが、ランガーと同様の考察をしています。

厚紙が猫の絵になるとはどういうことだろう。絵は平らで、猫は平らではない。頭だけでは不可能である。また、大きさも問わない。何が猫の絵なのか? 答えはもちろん、絵が猫の比率 (the proportions) を持っているからである。そうでなければ、猫には見えない。比率とは、たとえば耳の垂直方向の長さとその間のカーブ、そして目との関係といった、多くの部分間の関係である。このような部分間の比率的な関係の集合がパターンなのである (Such a set of proportional relations between parts is a pattern) 。 (Gendlin, 1991, p. 114; cf. 1992, p. 41)

ランガーとの共通点は以上までです。


絵の中の猫を撫でない: パターンの分離可能性と可動性

以降でジェンドリンは、パターンに関する考察から「二重化された知覚」という独自の議論にまで展開させます。彼は、人間が物事をパターンとして捉える能力を獲得することによって、猫の特徴を実在する場所から動かし、切り離すことができるようになるのだと論じます。

パターン (あるいは比率的な関係) は本来、事物から切り離せるのだ。パターンとはコピーできるものである。あるパターンがたまたま宇宙のある場所にしか存在しなかったとしても、パターンとして他の場所にも存在しうる。パターンとは、切り離せるのだ。切り離せるということは、この、パターンを動かせることから導き出される。 (Gendlin, 1991, p. 115; cf. 1992, p. 42)

複数の場所で起こりうることは、本来その場所とは無関係だということである。比率は本来、場所とは無関係である。ここにおいては肉体の上にあり、そこにおいては厚紙の上にある。二つの場所では長さも違うが、この長さはあの長さよりもずっと大きく、どちらの場所でも同じである。パターンとは本来、周りから切り離せるのだ。絵を作る関係とは「空間的な関係」である。パターンは、そこに何があろうと同じ関係を作ることができるのである。 (Gendlin, 1991, pp. 116-7; cf. 1992, p. 43)

パターンが持つ特徴により、実在する猫から切り離し、同じような比率を持った別の場所にある架空の猫の絵を絵として捉えることが可能になります。これこそが、動物と異なる人間の特徴なのだとジェンドリンは論じます。

この絵は視覚的には猫であるが、厚紙でもある。我々人間は、この二重化された知覚 (doubled perception) を持つことができる。すなわち、我々は一度に両方に反応する。つまり、我々は猫を見ているけれども、あくまで絵として見ているのであって、その絵を撫でようとは思わないのである。 (Gendlin, 1991, p. 113; cf. 1992, p. 40)

だからこそ、人間の場合、「厚紙を叩けば音がすると予想しているのに、代わりに猫がニャーと鳴いたらショックを受けるだろう」 (Gendlin, 1991, p. 114) とジェンドリンは指摘するのです。なぜなら我々は、猫はあくまで絵の中にだけあって実在はしないものだと思っているからです。これが、『プロセスモデル』における次の主張につながるのです。

絵とは、存在する必要のない何かについて (of something) のものである。 (ジェンドリン、1997/2018、p. 125; cf. ジェンドリン, 2023, p. 210)

動物にはなく、人間のみが持つ「二重化された知覚」の特徴とは、猫の絵を見ながらも、本物の猫がいるかのように撫でないことです。絵のような視覚的パターンに反応する人間の能力を’70年代のジェンドリンは、「ある意味では状況を変えず、状況の中で行動せず、しかし別の意味では状況を処理することができるという、新しいタイプのプロセスを伴う」 (Gendlin, 1973, pp. 374-5) と論じていました。具体的に言えば、「絵を撫でない」ことが「状況を変えず、状況の中で行動しない」ということに相当します。これが『プロセスモデル』における「絵に描かれた対象があたかも存在するかのように行動することとは異なる」ということの具体的に意味するところなのです。


「ナポレオン」という語にお辞儀しない: 語における「~について」

さらに、同じ『プロセスモデル』において、ジェンドリンは「絵に絵として反応することは、~について (aboutness) を生きることである」 (Gendlin, 1997/2018, p. 125; cf. ジェンドリン, 2023, pp. 210-1) とも述べています。そこで、「~について」をランガーが語のようなシンボルの論述的使用 (田中, 2024, January) において考察していることをまず概観し、その後でまた「我々は絵に絵として反応する」というジェンドリンの主張に立ち戻ってみましょう。

先ほどから引用しているランガーの代表作『シンボルの哲学』 には、何気なく “about” という前置詞が出てきます。

…我々はあからさまに何も反応しないで、その対象について考える (think about) ことができる」 (Langer, 1942/1957, p. 64; cf. ランガー, 2020, p. 137)

「あからさまに何も反応しない」とは、具体的には次のような箇所が挙げられるでしょう。

もし犬に主人の名である「ジェームズ」と言えば、犬はその音をサイン [シグナル] として解釈し、ジェームズを探すであろう。ジェームズと呼ばれる誰かを知っている人にそう言えば、その人は「ジェームズがどうしたんだ (What about James?) 」と尋ねるであろう。この単純な質問は、犬には永遠に不可能である。 (Langer, 1942/1957, p. 62; cf. ランガー, 2020, pp. 132-3)

シグナル的にではなく、シンボル的に使われる用語は、その対象の存在にふさわしい行為を呼び起こさない。私が「ナポレオン」と言っても、私が紹介したかのようにあなたはヨーロッパの征服者にお辞儀をするのではなく、ただ彼のことを思い浮かべるだけである。 (Langer, 1942/1957, p. 60; cf. ランガー, 2020, p. 130)

つまり我々人間は、ジェームズを探すというあからさまな行動をすることなくジェームズについて考えることができるし、ナポレオンにお辞儀するというあからさまな行動をすることなくナポレオンについて考えることができるのです。このように「その対象の存在にふさわしい行為を呼び起こさない」ことが、絵についてかつてのジェンドリンの考察で述べられた「ある意味では状況を変えず、状況の中で行動しない」ことの、論述的レベルでの「~について」です。そして、「状況を処理する」ことの良い例が「ジェームズがどうしたんだ (What about James?) 」と尋ねることだと言えるでしょう。

ランガーはシンボルとしての語の特徴をシグナルと対比して、次のように論じています。

我々の語のほとんどは、シグナルという意味でのサインではない。語は事物について (about) 話すために使われるのであって、私たちの目や耳や鼻を物事に向けるために使われるのではない。…語はむしろ、不在の対象に対する特徴的な態度を身につけさせるためのものであり、それはここにないもの「について考える」…と呼ばれる。このような能力において使われるサインは…シンボルである。 (Langer, 1942/1957, p. 31); cf. ランガー, 2020, pp. 80-1)

シグナルとしての語が動物たちの目や耳や鼻を事物に向けるのであれば、それは実在の対象に対する態度です。しかしランガーによれば、シンボルとしての語には、我々にここにはないものについて考えさせる力があります。この発想がのちの『プロセスモデル』では、シンボルの論述的使用にとどまらず、「絵は存在する必要のない何かについてのものである」 と非論述的使用にまで拡張されたのです。


ナポレオンの絵にお辞儀しない: 視覚的パターンにおける「~について」

上のランガーの例では「ナポレオン」という「語」を発しても、「あからさまに何も反応しないで、その対象について考えることができる」ということでした。しかし、このことは、「語 (word)」のようなシンボルの論述的な使用に限らず、「絵 (picture)」のようなシンボルの非論述的な使用に対しても当てはまることでしょう。すなわち、ランガーは言ってませんでしたが、「私がナポレオンの絵を見せても、私が紹介したかのようにあなたはヨーロッパの征服者にお辞儀をするのではなく、ただ彼のことを思い浮かべるだけである」と非論述的レベルにも適用できると私は考えるのです。

(David, 1801)

これが「絵に絵として反応することは、~についてを生きることである」の意味するところだというのが私の解釈です。


木の見えに登らない: 『プロセスモデル』における「休止 (pause) 」の一解釈

以上のような具体的考察を踏まえれば、ジェンドリンが『プロセスモデル』において、語のようなシンボルの論述的使用が始まる前の時点で次のように論じていることが理解しやすくなるでしょう。

行動空間は今や、休止 (ダンス、ジェスチャー) を伴う連続をいくつか含む。 (Gendlin, 1997/2018, p. 127; cf. ジェンドリン, 2023, p. 213)

絵にお辞儀をしないことは、そのような休止の一つだということができるでしょう。そして休止 (pause) とは、下記の節で言えば「行動することなく」「行動を再開しない」「行動しないような仕方で持ち、連続すること」と言われていることに相当するでしょう。

対象の見えはシンボル的である。人は今、行動することなく、対象をその種の対象 (その行動コンテクストに属する) として見ることができる。 (Gendlin, 1997/2018, p. 128; cf. ジェンドリン, 2023, p. 214)

見られたものはパターンである。それは食物 (対象が食物であるとする) ではなく、その見えと聞こえである。人は見えと聞こえで栄養摂取することはできない。最初、見られたものは行動を再開しない...。見られたものは (例えば) 食物形状である。見られたものは~の (of) である。見られたものは~について (about) である。 (Gendlin, 1997/2018, p. 129; cf. ジェンドリン, 2023, p. 216)

私たちは、食べるという行動することなしに、その見えや形状によって食べ物のことを思い浮かべたり (think of) 、食物について考えたり (think about) することができるのです。

純粋に視覚的なもの、音、匂い、これらはシンボル的な産物であり、つまり、行動しないような仕方で持ち、連続することの後でのみ、そしてだからこそ可能になる。それは、ちょうど木の単なる見えには行動しないようなものである。私たちは木の見えに登らない。 (Gendlin, 1997/2018, p. 129; cf. ジェンドリン, 2023, p. 217)

上記の節は、絵を見る以外の場面でも休止が生じ、物事をシンボルとして知覚することができるようになることをより幅広く描写しているのだと言えるでしょう。


おわりに

ランガーがすでに論じていたように、動物が絵に絵にとして反応しないのは、絵をシンボルとして知覚できないからです。しかし、ランガーにおいては、前置詞の“about”や“of”の用法に代表されるようなシンボルの特性に関する考察は、語のような論述的使用に限定されていました。一方、ジェンドリンは、シグナルとは異なり、シンボルは「対象の存在にふさわしい行為を呼び起こさない」あるいは「不在の対象 “を思い浮かべる” という特徴的な態度をとるように仕向ける」というランガーの考察をシンボルの非論述的使用にまで遡って適用しました。こうして彼は、絵における部分間の比率的関係に端を発する「二重化された知覚」の時点ですでに「~について」が見られることを指摘することができたのです。これにより、ジェンドリンは非論述的使用から論述的使用に至るまでの間でシンボル的認識が唐突にではなく徐々に発展していることをより細やかに説明可能としたのです。


文献

David, J.L. (1801). Bonaparte franchissant le Grand-Saint-Bernard.

Gendlin, E.T. (1973). A phenomenology of emotions: anger. In D. Carr & E.S. Casey (Eds.), Explorations in phenomenology (pp. 367-98). Martinus Nijhoff.

Gendlin, E.T. (1986). Let your body interpret your dreams. Chiron. ユージン・T・ジェンドリン [著]; 村山正治 [訳] (1988). 夢とフォーカシング: からだによる夢解釈. 福村出版.

Gendlin, E. T. (1991). Thinking beyond patterns: body, language and situations. In B. den Ouden, & M. Moen (Eds.), The Presence of Feeling in Thought (pp. 21–151). Peter Lang.

Gendlin, E.T. (1992). Meaning prior to the separation of the five senses. In M. Stamenov (Ed.), Current advances in semantic theory (pp. 31-53). John Benjamins.

Gendlin, E. T. (1997/2018). A process model. Northwestern University Press. ユージン・T・ジェンドリン [著]; 村里忠之・末武康弘・得丸智子 [訳] (2023). プロセスモデル : 暗在性の哲学 みすず書房.

Gendlin, E.T., Grindler, D. & McGuire, M. (1984). Imagery, body, and space in focusing. In A.A. Sheikh (Ed.), Imagination and healing (pp. 259-86). Baywood.

Langer, S.K. (1942/1957). Philosophy in a new key: a study in the symbolism of reason, rite, and art(3rd ed.). Harvard University Press. スザンヌ・ランガー [著]; 塚本明子 [訳] (2020). シンボルの哲学 : 理性、祭礼、芸術のシンボル試論 岩波書店.

田中秀男 (2024, January). 語と視覚的パターン:ジェンドリンとランガーの考察を踏まえて.

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