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語は一線に横並び: シンボルのdiscursiveな使用

ジェンドリンの『プロセスモデル』の「Chapter VII B. 原始言語」において、‘(f-9) Discursive use versus art'(Gendlin, 1997/2018, pp. 178-9)というセクションがある。このセクションでは、シンボルには、語(words)などのシンボル使用と音楽や美術などのシンボル使用との対比が論じられている (俗にいえば、言語的シンボルと非言語的シンボルの違いのこと。ただし、ジェンドリンはこの区分をverbal / non-verbalと呼ぶことをあまり好まないようだが。)

語によるシンボルの特徴の方をdiscursiveと呼んでいるのだが、これは哲学の素養がないと理解が難しい。スザンヌ・ランガーの著作『シンボルの哲学』を読むと、哲学においてこの用語がどのように使われてきたのかが、簡潔に論じられている。

…語には線状的、分離的、継起的順序がある。語は一個一個ビーズの首飾りかロザリオのように繋がっている。…ごく限られた語尾変化を除けば、我々には複数の名辞の束を一度に喋ることができない。 (ランガー, 2020, p. 166)
…全ての言語は、…観念を一つずつ順に並べざるを得ない形式になっている。ちょうど実際には身体に重ねて着る洋服であっても、物干し網には順に並べていかなければならないように。言語シンボルの持つこの性質は「論述性 (discursiveness)」と呼ばれる。 (ランガー, 2020, p. 168)

要は、discursiveとは、「談話」などと訳されるdisourseの形容詞形である。哲学の世界では、古くは「比量的」と訳されたことがあり、ランガーの訳書では、「論弁的」あるいは「論述的」という訳語が当てられている。

以上のことを踏まえると、哲学の文脈では、中級英和辞典のdiscursiveの項目で最初に出てくる「散漫な (= rambling)」という意味では全く使われていないことが分かる。

哲学の分野において、discursiveという術語が従来どう使われて来たかということを踏まえていれば、語などのシンボルの方が、音楽や美術のシンボルよりも「散漫だ」という誤解を事前に防ぐことができることであろう。


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