『確実性の探求 (The quest for certainty)』 (Dewey, 1929) の新訳

4年前(2018年)に出たのが下記の翻訳書です。

デューイ[著]・加賀裕郎[訳]『確実性の探求』(東京大学出版会)

いい訳本だなあと思います。

デューイの主著の一つ、"The quest for certainty" (Dewey, 1929)は、今まで邦訳が2回公刊されていましたが、今回の訳でようやく理解がかたまってきたことも多いです。

訳者でいらっしゃる加賀裕郎先生の著作『デューイ自然主義の生成と構造』については、僕は長年ファンとして愛読してきました。

訳書『確実性の探求』には、「傍観者的認識論 (The spectator theory of knowing)」に対する批判的考察があります。とりわけ、以下のくだりはとても勉強になります。

思考が身体から独立した「理性」の働きであり、それは純粋に論理的な操作によって真理に到達すると見なされるとき、人間の自然の心の動きから言って、傍観者的認識論は避けられなかった。今や私たちは…すべての心的過程には有機体の行為が役割を果たすことに気づいているのだから、傍観者的認識論は時代錯誤である。(デューイ, 2018, p. 199)


心はもはや外部から世界を見つめる...傍観者ではない。心は世界自体の進行過程の一部として、世界の内部にある。...外部にあって見つめる認識から、進行中の世界のドラマへの積極的参加者としての認識への推移が、歴史の流れであり、私たちはその記録を跡づけてきたのである。(デューイ, 2018, p. 238)


ここでいう傍観者は、『プロセスモデル』(Gendlin, 1997/2018)で言えば、第1章の「傍観者の環境(spectator's environment)」(岡村心平さんのnote記事より)というときの傍観者に相当するのかもしれません。あるいは、同書第4章の"idealized observer" (Gendlin, 1997/2018, p. 34) に相当するのかもしれません。いずれにしても、そんなことを考える刺激になります。

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