見出し画像

早田ひな選手の発言をきっかけに知覧特攻平和会館へ行った日のことを思い出しました

南九州池田湖の南に位置する開聞岳。決死の青少年兵たちが知覧の特攻隊基地から飛び立ち最後に見た「大日本」が開聞岳でした。開聞岳は薩摩富士とも呼ばれ、彼らが開聞岳に日本の象徴「富士山」を心に描いていたかもしれないと想像すると、切なくなります。

私が鹿児島南九州市にある知覧の特攻平和会館に訪れたのは、雨がしとしと降る2022年3月のある日。

それまで戦争を知らない私にとって、衝撃的で心の中から離れない場所は、埼玉県東松山市にある「原爆の図」が見ることができる丸木美術館でした。私にとって「原爆」という見たことも触れたこともない悲劇があったことを初めて実感できた場所でした。

また、私が「絵画からにじみ出るリアル」を感じ取った初の体験でもありました。「写真のリアル」よりも「絵のリアル」の方が迫りくるものが大きいということに戸惑いを覚えたことも今でも忘れません。

2022年3月のその日、知覧特攻平和会館に入り、手書きの遺書や手紙を目にしました。色褪せたわら半紙に肉筆の文字が書かれています。80年近くたった今でも文字が生きているようで、「過去のリアル」だと簡単に片付けられず、胸がつまりました。この場所も、新たに私の心を鷲掴みして離さないものになりました。

卓球の早田ひな選手が、オリンピックからの帰国時に「鹿児島の特攻資料館に行って、生きていること、そして自分が卓球がこうやって当たり前にできていることというのが、当たり前じゃないというのを感じてみたいなと思って、行ってみたいなと思っています」とインタビューに答えました。

きっと早田選手も精神的にもっともっと強くなって、次のロス五輪でも素晴らしい結果を残してくれることを期待し、引き続き応援したいと思いました。

それにしても、知覧特攻平和会館で色々な資料を見て、当時の軍隊が科学に無知であったことにもくやしい気持ちになりました。

当時のアメリカ軍は、サイバネティクス(情報と制御システムの統合的な科学)を利用して戦闘機を開発しましたが、サイバネティクスのシステム的限界にも現実的に向き合い、いざとなれば操縦士である戦士の命を守るために安全装置を兼ね備えます。これが科学の常識です。

それに対して、日本の軍隊は「零戦」に安全装置も装備せず、サイバネティクスの限界も顧みることもなしに、ただただ生身の体と魂で乗り越えようとする無謀で非人道的かつ非科学的な戦闘を繰り返しました。しかも、戦闘機には片道の燃料しかつまれていなかった。

アメリカ軍が恐れをなしたのは、軍隊ではなく、軍隊の非常識極まりない土地狂った理解不能な状態だったのかもしれません。それが原爆の投下を後押ししてしまった要因のひとつだったのではなかったかと思う自分が、知覧特攻平和会館にいたのでありました。

サポートありがとうございます!