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「アリとキリギリス」を恣意的に改編する

物語にはそれぞれに
テーマやメッセージ、世界観があり、
登場人物(イソップ寓話の場合は動物や虫)や場面の設定、
ストーリー展開の順序など、
作者による恣意性がつきものだ。

これらの恣意性を排除したものが、ドキュメント(記録)であり論文である。ドキュメントや論文では、時間の流れを表現するのは難しい。仮にいつどこで何が起こったかを時系列に並べてもただの記録にしかならず、時間の流れは感覚的に伝わらない。

歴史の教科書(ドキュメント)と歴史小説の面白さの違いは、そこに時間が流れているかいないかに関わる。

近代科学においては、積極的に恣意性を排除してきたが、記録よりも、物語を通しての方が、記憶に残りやすい。

物語は教訓を伝えるのにも役立つ。教科書的に説教されるよりも、物語を通して教えてもらった方が素直に受け入れやすいこともある。だから聖書にも仏典にも物語が多用されるのだ。そして、物語は何よりも娯楽としても人の営みに欠かせないものだ。

イソップ物語のひとつ「アリとキリギリス」は、夏の間、こつこつと食べ物を運んで蓄えるアリと、そんなアリをバカにするキリギリスの対比が描かれます。キリギリスはバイオリンを弾き、歌を歌って夏を過ごしました。やがて冬が来て、キリギリスはお腹が空いたので食べ物を探しますが、見つかりません。アリが食べ物を蓄えていたことを思い出し、食べ物を分けてもらおうとお願いしました。するとアリは慈悲の心をもって、キリギリスに食料を分け与えます。キリギリスはお礼にバイオリンを弾いて歌い、アリに聞いてもらいました。

このお互いが助けようとする優しさを描く展開は日本でも多く語られるパターンで、ディズニー作品もこのパターン。この他にもいくつかの改編パターンがある。

ひとつは、アリがキリギリスの願いを断り、キリギリスが飢え死にする、目先の快楽に溺れた哀れな姿を描くパターン。

もうひとつは、キリギリスが「もう歌うべき歌はすべて歌い終わりました。アリさんは私の亡骸を食べて生き延びて下さい」とアリを助けようとするパターン。

アリとキリギリスはもともとは「アリとセミ」だったらしい。ギリシアなど地中海沿岸ではセミが生息していたが、北ヨーロッパなどではセミになじみがないので、セミがキリギリスに改編されたようだ。

もともとの登場人物がセミだとすると、夏の間わずかな期間しか生きることができないセミが「歌を歌う」使命を全うして、土に帰るという生命のはかなさと尊さを描こうとしたという見方もできるのかもしれない。

このように、作者が作品において、恣意性をどのようにもたせるかによって、同じ登場人物や場所であっても、物語の展開が大きく変わり、受け取る印象もいくらでも広がっていく。科学の世界では、恣意性は主観的であり、客観的でないと嫌われるが、物語にとっては、不可避のテーマなのだ。

最後に私的改編を試みた。

世界戦争がはじまりました。秋になると食事が配給制に変わり、冬になると食事の配給さえも止まってしまいました。キリギリスは、何にも食事にありつけていません。意識朦朧とふらふらしながら歩いていると、偶然アリさんに会いました。

アリ「どうしたのですか?こんなに瘦せてしまって」
キリギリス「もう平和のために歌う気力も体力もありません・・・」
アリ「これを食べてください」
キリギリス「いいのですか?」
アリ「私たちは夏のあの頃、キリギリスさんの歌に励まされ頑張れたのですよ。そのお礼ですから、どうぞ」
キリギリスは、ひたすらに食べました。
キリギリス「どうして食料があるのですか?」
アリ「私たちは土の中を住処にしているから、国の者に見つかり食料を奪われることもありません。それに自給自足で良かったとつくづく思っています」
キリギリス「危険を顧みず、私に食料を恵んでくれてありがとう」



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