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コンフォートゾーンを抜け出して辛かったらまた戻ればいいだけ

「コンフォートゾーンを抜け出そう!」というセリフをよく聞きますが、まるでコンフォートゾーンを悪者かのように扱っている感じに違和感を覚えるのは私だけでしょうか。

コンフォートゾーンとは?

まず、そもそもコンフォートゾーンとは何かについておさらいしておきます。以下の図は、人間が自己成長する過程で経験する心理的な領域を示しており、ビジネスの現場でもしばしば使われている概念です。

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心理的領域には冒頭に触れた「コンフォートゾーン」と「ストレッチゾーン」「パニックゾーン」の3種類があるといわれています。各領域は「不安レベル」によって線引きされるといわれており、ざっくりと以下のように定義されています。

コンフォートゾーン:不安にならない居心地の良い領域
ストレッチゾーン:未知の領域で多少不安になるが学びのある領域
パニックゾーン:未知の領域過ぎて強い不安を感じてしまう領域

「コンフォートゾーンを抜け出す」の違和感

この心理的領域の概念を引き合いに出す話は押し並べて、
①コンフォートゾーンはぬるま湯なので抜け出さないとダメ
②パニックゾーンは混乱してストレスが溜まるのでダメ
③中間に位置するストレッチゾーンに身を置くことが重要
という形で着地しています。

もちろん言っていることは理解できます。

でも、人間はそんなに単純な生きものではないわけで、コンフォートゾーンの居心地の良さを振り切ってストレッチゾーンに進むというのは簡単なことではないです。別にぬるま湯に浸かっている時間があっていいじゃないですか。

コンフォートゾーンという居心地の良い領域があるからこそ、私たちは健やかに暮らせるわけであって、①のようにそれ自体を否定するような捉え方はしてはいけないと思うわけです。

さらに、もっと言うと②のようにパニックゾーンにいる時間を否定するような捉え方にも違和感があります。「成長しようと思ってストレッチゾーンに入ったら、勢い余ってパニックゾーンに入ってしまった」そんな自分がいても面白いじゃないですか。

要するに3つのゾーンを「行き来できる」ことが重要

上記のように書くと、「そうは言ってもずっとぬるま湯にいたらいつまで経っても成長できないじゃないか」という反論が来そうです。

そうじゃないんです。
私は別にストレッチゾーンに向かうことを否定しているわけではない。成長するために多少の不安と引き換えにストレッチゾーンに身を置くべきということは理解できますし、そうしたいと思っています。

ただ、言いたいことはコンフォートゾーンを「抜け出す」という言い方が、「もう居心地の良い場所には戻れない」という不可逆さを含んでいるような気がして、人間を追い込んでしまうことに繋がるのではないかと危惧しているということです。

「コンフォートゾーン」「ストレッチゾーン」「パニックゾーン」どれも悪者ではないし、大いに経験すればよいと思うのです。重要なのは、3つの領域を自分は自由に行き来できるのだと思えることです。そう思えれば、不安が強くなったらすぐにぬるま湯で温まればいいし、安心する場所が確保されていれば行動することへの不安も少なくなります。

赤ちゃんは「いないいない、ばあっ!」で楽しむ

この「3つの心理的領域を行き来できる重要性」を赤ちゃんが示唆してくれています。赤ちゃんに顔を隠して「いないいない、ばあっ!」と言うととても喜びますよね?

これは、
・目の前に人がいてニコニコ笑っている(コンフォートゾーン)
・顔を手で隠そうとしている、どういうことだろう(ストレッチゾーン)
・顔が見えなくなった、怖い(パニックゾーン)
・ばあっ!顔が見えた!(コンフォートゾーン)
という流れで3つの領域を行き来しているので喜ぶのだそうです。

「目の前の人がニコニコしている」というのはとても居心地が良い状況です。でも「目の前の人が一瞬いなくなる」ことで、自立するために成長が必要なのだと悟る。でも「笑顔でまたさっきの人が現れる」ことで「やっぱり嬉しい!」という感情になるということです。

この赤ちゃんの「いないいない、ばあっ!」の例からわかる通り、私たちは生来的に3つの心理的領域を行き来することを楽しみ、求める生きものであるはずです。

「コンフォートゾーン」や「パニックゾーン」を悪者扱いするのではなく、全部の領域と仲良くなるくらいの気持ちでいればいいんじゃないかと思うのです。

おわりに

読んでいただきありがとうございます!

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