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【書籍】「読書」についての一考察-森信三『修身教授録』より

 森信三氏の『修身教授録』は私の大好きな書籍の一つです。この書籍は、いろいろな局面で読む度に新しい気づきを与えてくれます。

 2023年7月号の『致知』では、「学を為す故に書を読む」が取り上げられました。これは、江戸時代後期の陽明学者・佐藤一斎の『言志四録』にある言葉です。「読書は学問のための手段である」ということです。これについては、以下の記事で取り上げました。

 実は、『修身教授録』の中にも、「読書」について述べた章があります。今回、ここを取り上げて少し深掘りしたいと思います。該当は箇所は 第一部 第9講 仕事の処理 p61-69です。


読書は「心の食物」

この読書が、われわれの人生に対する意義は、一口で言ったら結局、「心の食物」という言葉がもっともよく当たると思うのです。
(中略)
実際われわれは、この肉体を養うためには、一日たりとも食物を欠かしたことはなく、否、一度の食事さえ、これを欠くのはなかなか辛いとも言えるほどです。
(中略)
ところが、ひとたび「心の食物」ということになると、われわれは平生それに対して、果たしてどれほどの養分を与えていると言えるでしょうか。 からだの養分と比べて、いかにおろそかにしているかということは、改めて言うまでもないょう。

森信三著『修身教授録』p61-p62より引用

 読書を「心の食物」という捉え方をしています。つまり、我々は食べるということに対してはなんら不思議もなく実践しているわけです。一方、「心」の栄養分についてはなかなか実践していないのではないでしょうか。人間たるもの、「心」というのが非常に重要である。まずはそこをしっかりと認識する必要がありそうです。

人間生活は読書が半分

われわれの日常生活の中に宿る意味の深さは、主として読書の光に照らして、初めてこれを見出すことができるのであって、
(中略)
こういうしだいですから、読書はわれわれの生活中、最も重要なるものの一つであり、ある意味では、人間生活は読書がその半ばを占むべきだとさえ言えましょう。

森信三著『修身教授録』p63より引用

 「人間の生活の半分を読書に費やす」というのは、非常に大変なことだと思いますが、それだけ重要だということです。ただし、物理的な時間を本当に半分を使うということではなく、「質」が大切だということがいえます。そしてさらに、「実践」をし、また読書に戻る、ということが大切なのでしょう。読むことだけが目的になっており、この点に気づいているという方はあまりいないような気もします。それがきちんとできている方もいらっしゃいそうです。

偉大な先人たちの足跡をたどる

 ですからその人にして、いやしくも真に大志を抱く限り、そしてそれを実現しようとする以上、何よりもまず偉人や先哲の歩まれた足跡と、そこにこもる思想信念のほどとを伺わざる得ないでしょう。すなわち自分の抱いている志を、一体どうしたら実現し得るかと、千々に思いをくだく結果、必然に偉大な先人たちの歩んだ足跡をたどって、その苦心の後を探ってみること以外に、その道のないことを知るのが常であります。ですから真に志を抱く人は、昔から分陰を惜しんで書物をむさぼり読んだものであり、否、読まずにはおれなかったのであります。

森信三著『修身教授録』p63-p64より引用

 読書は、「偉人のたどったことを容易にたどることができる」、これは非常に重要なことであります。それができるということは読書以外にはないでしょう。「偉大な人」というのは死んでしまっていたり、また、生きていたとしても、常に側にいるわけではありません。偉大な先人は、非常に苦労したということもあるでしょう。それをわずかな金額でたどれるというのは非常に大きいことであります。

「心の養分」は何を取っただろうかということを日々反省

 今日自分は心の食物として、果たして何をとったかと反省してみれば、だれだってすぐに分かることです。口先ばかりで、心だの精神だのと言ってみても、その食物に思い至らぬようでは、単なる空語にしかすぎません。その無力なことも、むべなるかなと言うべきでしょう。そこで諸君は、差し当たってまず「一日読まざれば一日衰える」と覚悟されるがよいでしょう。

森信三著『修身教授録』p65より引用

 「心の養分」改めて大切にしたいと思います。食物であるとものすごく意識するのですが。「一日読まざれば一日衰える」というのは大変厳しいお言葉。日々実践していくことの大切さを改めて知らされます。

土台は重要ではあるが、その上の建築物は何か

そこで今諸君らが、将来ひとかどの人間になろうとしたら、単に学校の教科書だけ勉強していて、それで事すむような姑息低調な考えでいてはいけないと思うのです。もちろん学校の教科は、基礎的知識として、いわば土台固めのようなものですから、決してこれを軽んずることはできませんが、同時にまた単に教科書の勉強だけで事足ると考える程度では、ちょうど土台だけつくって、その上に家を建てることを知らないような愚かさだともいえましょう。そもそも学校で教わる教科というものは、只今も申すように土台程度のものでしかないのです。もちろん土台は深くしてかつ堅固でなければならぬことは、言うまでもありませんが、同時にその人の特色というものは、むしろその人が自らすすんで積極的に研究したものによって、初めて出てくるものであります。それはちょうど建物の特色なども、単なる土台からは出ないで、地上の建築物によって分かるようなものであります。

森信三著『修身教授録』p67より引用

 「土台」は確かに重要。しかし、その上の「建物」が非常に重要となってくる。それが学校の学びは「土台」でしょう。しかし、本領発揮は「建物」であり、世に出てからになります。

毎日少しずつの訓練も重要

将来真になすところあろうとするならば、なるほど色々忙しくはありましょうが、単な教科の予習や復習だけで事がすむなどと考えないで、何とか工夫して、少しずつでもよいから、心の養いとなるような良書を読むことが大切でしょう。

森信三著『修身教授録』p68より引用

 とにかく、忙しくとも「積み上げていく」ということも重要であるということが分かります。「心の養分」というのはすぐに育ったものではないから、日々の鍛錬というのが重要です。「読書」に対する向き合い方について、いままで自身に甘さがなかったか、改めて問い直しをしたいところです。



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