漂泊幾花 【ふじ色の旅立ちその1~黎明】
一
春の東京は不思議な色合いを見せる。
スモッグなのか、春霞なのかわからないように、地平は曖昧な空の色を見せるのである。ただし、鮮烈な冬枯れの空の色より、曖昧模糊としたこの春の色は僕はとても気に入っていたことだけは確かである。
彼女は、デートのたびに僕より早く約束場所にいた。この次は、早くいってやると思っても、不思議なくらい彼女は、僕よりも早く待ち合わせ場所にいた。
「こら柴田耕作!。チ・コ・ク」
彼女は、僕に対してデートのたびにそういうのが楽しみのようにしてそういった。
どうしてなのかと尋ねてみた事がある。でも彼女は、あなたの想像どうりよ
とだけいうばかりだ。何もわからない。
早春
春がきた事はいっぺんにわかってしまうくらい空の色が違っていた。今までの砥すまされた鋭いナイフのような空とは違い。優しい空の色である。また、どことはなく薫ってくる草の息吹である。
彼女は、その息吹を胸いっぱいに吸い込んでいた。
彼女・・浦上咲は、今年誕生日がきたら19になる卒業間際の高校3年生。歳に似合わないどこか匂うばかりの女性だ。
「私、多摩川が好きなの。」
「ふうん」
「でもね、子供の時、もっともっときれいだったの。
例えば、向こうはね全部原っぱだった。どんどん変わるのね。」
「僕の田舎に比べたら、信じられないくらい都会さ。」
「そりゃ、あなたの田舎は熊や狐が幅を利かせているんですもの。比べものにならないわ。ふふふ。」
「高校生のくせに生意気いうんじゃありません。」
あまりにも彼女の応酬が激しいので、ついいってしまった。
「ねえ。どこか入らない?」
「え?」
「なんだか、寒いの。」
「そうか。」
ふっと空を見上げた。ライラックの花のいろの様な空が、地平近くに広がっていた。
「咲、ライラックって知ってる?」
「ライラック?」
「北海道ではね、6月になると一斉にに町まちにあふれる花さ。」
「いってみたいなあ・・・」
そんなことを話しながら、駅前の喫茶店に入った。
「自由が丘ってなまえが好きだな。
でも、先輩、自由って言葉、考えたことあって?」
「自由か、とても難しいことだな。簡単に考えたくない」
「先輩は、すんごい仏教徒だから知ってると思うけど、一期一会ってしってる?」
「禅の考えだね。」
咲の家は、キリスト教学者の家である。だから、いきなり東洋思想を持ち出されて、少しびっくりした。
「じゃ、知ってるわよね。あとすこしでね、もし命が絶えると知ったら、いっときいっときがかけがえのないものになるわね。」
「だから、毎日をそう定めて大切に生きよ、ということだろうね。」
「カトリックでは試練と呼んでるわ。」
「君は、今日は妙に難しい話をするなあ。」
「あっはっは・・卒業レポ-トの宿題よ。」
「へえ、最近の高校生はすごいんだな。」
「そうよ、尊敬しなさい。」
「調子に乗るな。」
「入れてあげる。」
そう言って、ぼくのコ-ヒ-カップに砂糖をいれた。
「3つも砂糖をいれるなんて、子供みたいね。」
「子供はどっちだよ。高校生のくせに。」
「あら、こういう事は精神の問題なんですからね。少なくとも男の人はみんな赤ちゃんみたい。」
「なんか、悟りきった事をいうやつだな。」
「自分が死ぬことがわかると。人は悟るんだって。一歩神に近付くのかな。」
「さあ・・」
僕は曖昧な返事をした。さっきからの話に、ついて行けなくなったのかも知れないし、妙に迫力のある咲の澄み切った瞳や視線に、なんだか落ち着かなかったのだ。早くこの話題からのがれたいとも感じていた。
「ね、でようか」
咲は、急にそう提案した。彼女は、こういう時に、人の顔をのぞき込む仕草をする癖があった。それが妙に愛らしい。時には、これが本当に18才の少女なんだろうかと思えるほどおとなびていた。
外は黄昏時であった。春にちかずいたとはいえ、まだ風は冷たかった。
「来月から、あたしだって大学生になるんだから。そろそろ子供扱いはやめてほしいな。」
「そうか、考えてみりゃそうだね。」
咲は、僕の家庭教師のアルバイト先の教え子の姉である。その妹といっしょくたになるから、知らないうちに子供扱いをしてしまっているのかも知れない。
「大学生になったらお祝いをしてあげよう。」
「わあほんと?」
「合格発表の後でね。」
「そうかあ。そうなんだ。ねえ先輩、あたしは悩める受験生でもあったのだよ。」
「自信は?」
「ある。」
「大したもんだ。」
「でも、試験がおわっただけでもすんごい解放感だわ。」
「じゃ、合格発表は一緒に見に行こう。」
「ついてってくれるの? 嬉しい。」
「当然だ。大事な恋人の合格発表だからな。」
「うふ・恋人なんて言ったのはじめてね。」
「ああそうだっけ。」
「大人扱いしてくれてありがと。」
咲は腕を絡めた。ちょっと照れくさかったから。
「よせよ」
とは言ってみたが、大人になる彼女の雰囲気が何とも言えず心地よかった。 咲の家に続く木立の深い坂道は両側の家々の庭の手入れもよく、整った町並みだ。その向こうに教会がある。そこが咲の家だった。
「じゃあね、今日は楽しかったわ。」
「またな。」
「ねえ先輩、シャカがカピラヴァストゥを出家したのは彼がいくつの時?」
「29くらいかな」
「ふうん・・・」
「それがどうしたの?」
「なんでもないけど、それで涅槃のときってどんなだったの?」
「ずいぶんジジむさいことを言うなあ君も。」
「そお?」
「食中毒で死んだらしいけど。その臨終は、ではさようなら、諸々の事象は変化する。わたしは今から死ぬが、諸君も努力を怠るな。といって涅槃に入ったそうだ。」
「主は試練に耐えたわ。でもね、とうとう最後に【主よ、主よ、私を見はなしたもうたか】って叫んだのよ。」
「その点、キリストさんのほうが人間くさいかも知れないね。」
そんなおよそ若者の会話とは思えない話をしながら別れたが、今日の咲はなんとなく変わって見えた、妙に達観しているのだ。また同時に何か追いつめられていた。それが僕にはやけに気になった。
数日後、咲の合格発表の日になった。この日、咲は、わざわざ僕の下宿に朝早くから訪ねてきた。僕は、昨日のコンパで、ひどい二日酔いだった。
咲は、入ってくるなり
「なあんだ、ねてるの?」
「う~ん」
「だらしないわねえ。今日はあたしと合格発表を見に行く日だぞ。」
「ああそうか・・・」
「いやだ、忘れたの?もお無責任なんだからあ。」
「いやあ悪い悪い。」
僕は詫びた、照れ隠しだったのかも知れないが。咲は、ぷっとむくれた。こういう点は、やっぱり高校生だった。
「あーあ、あたしなんて先輩にとってどうでもいいのね。」
「そんなに怒らなくってもいいじゃんか。昨日のコンパは体育会と飲んだんだから。」
「でもあたしの合格発表を忘れてるなんてひどおい。」
「わかったわかった、すぐ行こうよ。」
僕はすぐ身支度した。
「いやあねえ」
咲は目を背けた。
「サイテー!レディの前でそんな格好するなんて。」
「そんなこと言ったって、急いでんだからしかたないだろう。」
「しらない」
咲は外にでてしまった。
僕は急いで外にでたら、彼女はアパートの出口の階段にすわってまるで小さな子供を待つ母親のような顔をしていた。
「あたしの不安な気持ちなんかわかってくんないんだから。」
「そんなにふくれるなよ。僕なりに反省はしてるんだぜ。」
咲のきげんはなかなか治らなかった。
ぼくはチャリンコを押しながら。まだふくれっつらをしている彼女を気にした。
「合格しなかったら死んでやるから。」
「脅かすなよ。」
「本気なんだから。女の子をおこらすと、恐いんだからね。」
「あ~あ、処置なしだな。」
僕はなかばあきれながら、キンモクセイの匂いが輝きだした街並をきげんの悪い少女と共にあるいた。
駅前通りにさしかかるとそろそろ、不安げな受験生にたくさん出会った。毎度の事ながら。終わってしまった者のちょっとした優越感。それと、ささやかな回帰願望からくる羨望に似た感情。それが入り乱れていた。 大学の校門前にくると咲は急に歩みをおそくした。
「なんだか恐いなあ。」
「自信あるんだろう?」
「はったりよ。ほんとは恐いんだから。」
「ははは・・・」
僕はなんとなく安心した強がってもやっぱり子供だな。そんな感情がわいてきてなんとなく安心した。
「いいわよ、先輩なんか絶対あてにしないんだから、あたし一人で見に行ってやるもん。」
「だから悪かったって言ってるだろうが。」
咲は終始機嫌が悪かった。時々ぼくのチャリにケリまでいれる始末だった。そうこうしている間に、さほど広くもない道路に面して奥まったところにある大学の校門についた。もはや合格発表はされているらしく、心配顔の学生服やセーラー服が行き交っていた。
校門の前には、たくさんの人だかりだった。
「だめ、ついてって。」
咲はとうとう、さっきまでのふくれっつらを返上した。
僕は必死に祈りを捧げる少女の手をひいて、掲示板の前に人をかき分け向かった。
「な、何番だよ。」
咲は受験票を取り出して、
「2065」
とだけ言った。
僕はその記号をじいっと追いかけた。
時間と、数字がいたずらに止まった。 一つ一つの数字に神経を集中しつつ、無機質に並んだ数字の列に見入った。不思議なもので、こういった数字は無機的であればあるほど、何らかの意味を持ったとき、強烈なインパクトがあるものだった。
「2065」
の全く無機的な記号がそこに存在するとしないとでは、天と地とも違いがある。そんなちっぽけな事にぼくたちは支配されているんだ。
結果は前者だった。
咲は
「うれしいっ」
と小踊りした。
だが、考えるとそこで、掲示板を何回も何回もみたあと、影も薄く肩を落として立ち去っていく受験生も何人もいたわけだ。たった一つの数字ごときで、こんなにも気持ちが違ってしまうのだ。考えれば不思議なものだ。
その日、僕は妙に冗説だった。たぶん咲自身もきっと新入学の興奮が残っていたのかもしれない。なんとなく二人とも舞い上がっていた。そう考えるのがいいのかもしれない。
「先輩、お酒が呑みたいな。」
「こら、不良だな。」
「ばかね、退学になると困るもの。雰囲気でそれっぽいの呑みたいわ。特に今日。代わりにおいしいもの!」
咲はとてもじゃないが十代とは思えない艶めかしさを持ってそう言った。
「ようしお祝いだ。パ~ッといくか。」
「わあ先輩さ-すが。」
駒沢公園から歩き出したときはすでに日は西に傾くころだった。
せっかくだから渋谷に出ることにした。チャリンコはいいかげん邪魔だったから、駅においていくことにして、咲とさっさと地下駅に入っていき、
このまえようやく地下鉄二駅と直通するようになった銀色の電車に乗り込んだ。真っ暗な穴蔵を電車は行く、咲はとうとう僕の腕に手を回すくらい大胆になってしまった。
渋谷はいつもにぎやかだった。もぐらのように地下ばかりを歩き、階段を経て地上に上がったら、ハチ公がそこにいた。ハチ公のまわりは、いつ来るともない人待ち顔の群れでごった返していた。
「あのね、家ってとても厳格でしょ?
大学の先生ったってはっきり言や牧師さんだしね。だからすごくいま、解放された気分なの。なんでかな。」
「大学生になったからかな。」
「ううんそれだけじゃないんだ。」
「え?何?」
「まあいいわ、ねえ、どこか素敵なところ、早くいこうよ。」
せっかくのギャルづれの飲み会だ。
というよりもこれはいわゆるデ-トだろう。僕は場所の設定に困った。
「咲、しってる店ある?」
「なに言ってんのよ。あたし高校生なんだから、飲み屋なんて知ってるわけないでしょうが。」
「だって雑誌でいま高校生だってガンガンのんでるなんて書いてたもん。」
咲はちょっとムッとして、
「あのねえ、そりゃ一部の人はそうかもよ、だけど大部分の人はきわめて真面目なんだからね。そうマスコミのままにだまされるなんて、あたしの愛した先輩らしくないわ。」
「ははは、それ自体が怪しいけどな。」
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結局僕たちは宇田川町を選んだ。まあ、貧乏な僕らはそこが一番だった。一応女性向きの所もあるしな。というのも、前に一度ここのしゃれた店でアルバイトをしたことがあったからである。もちろん客ではいるのは初めてである。なんとなく優越感が身を走った。
僕たちは「B]という店に入った。
「いらっしゃいませ」
という言葉が照れくさかった。
「以下次回」
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