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ムダに教養がつくかも知れない不定期な雑学講座の連載(講義中は寝ないこと)~世界宗教の基礎知識2「仏教」をひもとく  第2講 大乗仏教の成立 最終講

禅宗の変化

 さて、江戸時代になると
中国から来日した隠元によって「黄檗宗」が伝わりました。

ざっくりとした特色をいうと、臨済禅と念仏を融合した
「念仏禅」と呼ばれるものです。

  絶対他力を重視する浄土教のスタイルではなく、
清規という生活の決まりを持っていましたので、
同様に生活規律を重視する禅宗である、
曹洞宗や臨済宗にとってはは大きな脅威になりました。

 これらの宗派では、これに対抗するために、
あらためて改革と引き締めが行われました。

曹洞宗では、祖師である道元の禅のスタイルに回帰する
復古的な動きが始まりました。

臨済宗では、「中興の祖」と言われた白隠が登場しました。
白隠は公案禅を体系化し、多くの弟子の育成や、
民衆への普及を精力的に行いました。

 これは「民衆禅」とも呼ばれるもので、
おのれの「悟り」が、
日常に活かされるものでなくては何もならない。
として、「悟後の修行」こそ大事なことである。
と弟子に厳しく説いています。

 それまでの禅、特に公案禅は
「知識としての蓄積」だけが積み上がっていくという悪弊がありましたが、このことで民衆がわかりやすい、
取り組みやすいものに変化していきました。

日常の生活すべてが修行である

 本来の仏教の修行者の集団(サンガ)では、
出家修行者である僧侶は、生活の一切は托鉢に頼っており、
労働を禁じて修行に専念するという戒律がありました。

  禅宗の修行集団は、サンガのように見えますが、
もともとは中国の道教などの出家者集団が発祥ですから、
こういった修行に対する「戒律」は存在しません。

むしろ、人里離れたところで
自給自足して修行する集団生活をしていたのがデフォルトですから、
坐禅だけではなく、「日常生活すべてが修行である」として、
仏教への整合性を図ったわけです。

禅宗だけでなく、もともと日本の仏教には「律」がない

 「律」とは修行する上での重要なものです。
なぜなら、宗派を問わず「僧」は「サンガ=修行者の集団」
と同義ですから、サンガを維持するための決まりである「律」は
必要不可欠なものであるということです。

  中国においても、「禅宗」の修行者をのぞいて、
すべての仏教の宗派には「律」が存在しています。
ところが、中国から日本へ仏教が伝わった際に、
「律」は不要とされたのです。

 なぜならば、日本への仏教導入は、
あくまでも「鎮護国家」を目的とした、
政治理念としての伝来であったからなのです。

国家に奉仕するための仏教でしたので、
サンガという独自の組織を作ることは認められませんでした。
ですからサンガ維持のルールである「律」は必要ではなく、
受戒儀式のためだけに律師を招聘するという
形式的なものに留まりました。

ですから、たとえば鑑真の願望とはうらはらに、
当時の朝廷は「律」を日本に定着させるという
明確な意図は持っていませんでした。

現在のお寺のスタイルが出来たのは明治維新以降

 しかしながら、「律」は存在しないとしても、「僧」はかくあるべきだと、時の支配者は常に寺院に一定の「縛り」をかけていました。

 たとえば江戸幕府が定めた「諸宗寺院法度」では、
みだりに僧の数を増やさないことや、新義の法を立てないこと、
本寺と末寺の関係を乱さないなど
一定の「寺院や僧の規律」が定められていました。

 ところが、明治維新がおこり、幕府に代わった新政府が、
権力の正当性を強化するため、
「国家神道」という宗教イデオロギーを打ち立てようとしました。
 そのため、神仏習合がデフォルトであったところに、
いきなり「神仏分離令」が打ち出されたわけです。

 その結果、神道を国家宗教にするために仏教を弾圧しました。
これが「廃仏毀釈運動」で、一種の「原理化運動」です。

ぶっちゃけて言えば、日本中の僧侶を事実上
一斉に「還俗させた」
ということになります。
ですから、日本の仏教のお寺のあり方は
全く変わってしまったと言うことです。

 よい、悪いはともかく、日本ならではの
ユニークな存在になっているということは、
これからのあり方も含めて、今後も変化していくのでしょう。

  長々とこのテーマにおつきあいありがとうございました。 

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