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 この命題は古来から存在し、それゆえに「哲学」や「宗教」が生まれたのだと言っても過言ではないでしょう。

 たとえば、自分の存在が「人間」であるには、「知」という人為があると西洋哲学は捉えています。
 すなわち、タレスが言う「万物の根源は水である」というように、すべての存在は「自然」からなっているという自然哲学から、「人類は万物の尺度である」とする、「人間中心」の哲学に変化しました。

 そこから「人間」とはいったいどのような存在なのだ。という問が生まれるわけです。 西洋哲学の根源は、こういった「果てしない知性に対する問」であるのかもしれません。 

 古来、ギリシアの神殿には、「汝自身を知れ」という標語が記されていました。
 ということは、おのれの傲慢を排せよという意味ではあるものの、ギリシャの賢人たちは、常に己とは何なのだ。
 
という命題を最も重要な人生課題としていたのでしょう。

 さらにソクラテスは「己の無知を自覚」することが「真の知」であり、この試みが哲学philosophy|であると述べたのです。

具体的な問を挙げると、

「自分がどのような在り方であるときに、自分であることを納得できるか。」
「人間とはそもそも何か、すなわち人間はいかなる在り方であるとき、人間であるのか。」

 という風に「人間とは何か」という命題を常に追求してきたのが西洋哲学であると言えるのです。
 また、その試みは、社会と自己の関係性において、自己の存在は何かという答えのない模索の繰り返しなのだとも言えましょう。

 今様々に報道される社会現象においても、実はこういった社会における「自己との関係性の在り方」も改めて考えるべき人生課題なのであるかもしれません。
 そしてその問は、問い続ける上では「絶対平等」で、相互に尊重されるべき問でもあると言うことです。

 つまり、自己に向けてこういった答え尽くされない問に、あえて問い続けること。

 こういった存在こそが自己の尊厳であり、これは不変の人間の人間たる尊い在り方であろうという絶対的な尊厳(不可侵の尊さ)とも言えるのでしょう。


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