数学におけるsymmetry
中学校の数学の時間で「数直線」というものを習った人も多いかと思います。まぁ覚えているかどうかはさておいてお話ししましょう。
さて、お解りでしょうが、数直線というのは「数」の概念を可視化したものです。文学的な表現をいたしますと、真ん中にある「0」を境に限りなく増える概念と、限りなく減る概念が、絶対対称の関係にあるということです。すなわち、ここで言えることは、「0」以外の存在は、必ず鏡面的に「ない」と「ある」という関係にあるということです。
ですから、この関係性が全くない概念は「0」であるという論理が成り立ちます。これが仏教でいう「空」というものです。
さて、ここでsymmetryの話になると、仏教でいうところの「彼我論」や、道教の「陰陽論」になるわけです。すなわち、いまが楽であるなら、同じ量の苦があるというわけです。その反対もしかり。
ですから、親鸞が説く悪人正機も、己の悪が深いほど救われるものが大きいのだということも言えましょう。実に合理的な概念です。ある意味天才的な哲学ですね。
権威や権力の象徴とか、仏典の具現たる寺院の建築が、symmetryである理由は、そもそも「下々」は混迷の中にあるので、その中において「空」という概念を無言のうちに示す象徴であるのかもしれませんね。
そう考えると、「正」と「負」の関係は、双方あってしかるものであるということがなんとなくわかってきます。しかも、このどちらかに拘ることは、そっくりそのまま対称軸に全く正反対の拘りが生まれると言うことです。すなわち、これが「悩み」の根源であるといえましょう。
だからこそ、どちらでもない中心値である「0」すなわち「空」という概念こそが、まさに平安であるという論法は、非常に納得できる概念です。