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中国三千年の歴史に挑戦する・その5

秦王朝の外交・経済政策

  中華統一の効果の一番の成果は、経済の効率化でした。
こういった「経済統合」の有効さは、たとえば第二次世界大戦後の米ドルを基軸通貨にしたブレトンウッズ協定体制が、西側諸国の経済発展を結果的に促し、ソ連を中心とした東側計画経済を凌駕したことでもうかがい知れることです。
 この原則は今も昔も変わらないと言えるでしょう。

 最も大事なことは、文字の統一。いわば情報の共有化が進みました。また、馬車の車軸の幅を統一させます。
 いわば「USB」によって規格が統一、輸送手段が合理化されたのですね。そして度量衡の統一や貨幣の一元化。これによる経済効率の向上は計り知れません。

 秦は中華諸国は統一しましたが、地政学的には決して安寧ではありませんでした。

 すなわち「中華」とはあくまでも「漢民族」のテリトリーであるわけです。この地域=中原が豊かになれば、周辺の民族は当然ながらその豊かさを求めてくるのは自然な動きです。
 漢民族は常に北方の匈奴、西方の羌族、南方の越族に対する外交政策に心を砕きました。
 内政における統制を強化し、危険思想を排除し、厳格な法治主義を貫き、儒家に対する言論弾圧を行いました。こうすることによって、中華の団結力を高めようとしたのです。これらは焚書坑儒ふんしょこうじゅという言葉で、紀元前212年までに行われたと記録に残されています。

 さらには、統一前から北方異民族である匈奴の侵入に備え、秦だけではなく趙や燕なども、防御の長城を築いていましたが、統一後はこの長城をさらに整備し、万里の長城として北方民族への備えとしました。

 このように秦は、北は満州・モンゴリア。南はインドシナに達する大領土を形成しました。それゆえ秦の国名は遠く西方まで伝わりChinastanaシナとよびなわらせ、逆の漢訳で「支那」が、中華の呼び名になったわけです。また、英語のChinaはこれに由来します。

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 秦の理念は確かに評価できますが、あまりにも改革が急激すぎました。厳格な法治主義と度重なる戦争、そして大工事は民衆を疲弊させ、不満を募らせたのです。

 紀元前210年、始皇帝・政は、東進遠征中、山東において客死します。後を継いだ二世皇帝の胡亥は暗愚であり、これを機に一気に各地で反乱が起こり、秦朝は混乱のうちに滅亡しました。地方の雄は再び国を名乗ります

 その反乱軍の中心となり、力を伸ばしたのが旧貴族勢力の筆頭、楚王の項羽でした。
 そしてそれに対抗したのが、新興勢力の筆頭、漢王の劉邦だったのです。

 彼らは互いに覇を競いましたが、紀元前202年におこった垓下の戦いによって、劉邦が勝利、天下は劉邦率いる「漢王朝」によって再び統一され、漢王は新たな皇帝になったのです。

また寝たのね・・赤点必至だ


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