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「日本仏教」と「止観」の接点 その4
「懺悔」と「悪人正機説」
さて、前回登場させました親鸞さんですが、
凡人たる凡人に悩み抜いた法然さんを上回る
「才能なし」のドツボにいて悩んでおられた人でした。
つまり、どんなに頑張っても「煩悩」から逃れられないのです。
しかも、親鸞さんは、僧でありながら
どうしてもスキでたまらない女性がいたわけです。
恵信尼さんといいますが、
結局この方と親鸞さんは夫婦になりました。
当然ながら、僧としてはあり得ないことでした。
ですがあくまでも僧でありたい、しかし、女性を忘れられない。
こういった究極の中から、
親鸞さんは、この末法に生きるものは
「すべからく悪人である」という考えに至ります。
これが「悪人正機説です」
根本は、まずは「自分は悪人である」と自覚することです。
このあたりはキリスト教の「原罪」にも共通するかも知れませんが、
同一ではありませんので、いずれ、講義するテーマといたしましょう。
まずは、この世自体を「仏の視点」におくということです。
そう考えれば、まず、「末法の世」に生きるものは、
「仏の教え」は一切伝わっていないという前提から始まります。
すなわち真理を何もわからないものが
うじゃうじゃと迷いの中でうごめいている
という状態なのだということです。
![](https://assets.st-note.com/img/1659152282675-41jTMMwrGZ.jpg)
つまり、誰もが「無明」のままにうごめいているのがこの現世である。
というわけです。
そこで、唯一「善」であることは、
自分がまことの善は一つも出来ない、
すなわち「悪人」であると気づくことにある。
というわけです。
「善人」は、真実の姿が分からず
善行を完遂できない身である事に
気づくことのできていない「悪人」であるとする
というパラドックスを示すわけです。
そして善行によって往生しようとする行為は、
「どんな悪人でも救済する」とされる
「阿弥陀仏の本願力」を疑う心である。
この考えが「絶対他力」という考えです。
これが親鸞さんの教えの根本になります。
衆生は根源的な「悪人」であるがゆえに、
阿弥陀仏の救済の対象は、「悪人」であり、
その本願力によってのみ救済されるとする。
つまり「弥陀の本願に相応した時、
自分は阿弥陀仏が見抜かれたとおり、
一つの善もできない悪人だったと知らされるから、
早く本当の自分の姿を知りなさい」とするのが、
「悪人正機」の本質であるとされます。
ですが、この悪と善は人が決めるのではなく、
あくまでも因と果によるものだ。
ということを、般若理趣経のように
「取扱注意」の考えだと申し添えておきましょう。
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