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松前藩の正史 「新羅之記録」解説1

 函館周辺、特に津軽海峡に面して、中世の「和人館」の跡が点在いたします。これらは道南十二館と呼ばれて、だいたい14世紀あたりには成立していたといわれるんでございます。また、函館には、基坂の中腹あたりに、河野加賀右衛門尉政通の館があり、これを「箱館」と呼び慣わしていたことから、現在の「函館」の地名になったと言われるのです。

 これらの中世の道南や蝦夷地の様子は、松前藩が作成した「新羅之記録」という古文書に書かれておりまして、たとえば道南における中世遺跡の「説明板」の内容はこの古文書の記録に由来しているのです。

 この「新羅之記録」は、松前藩の重臣、松前景廣が寛永20年(1643年)に幕命によって編纂した松前家系図を、多くの記述を補って作成したもので、今日残されている北海道最古の歴史文献であり、いわば、「道南の古事記」とも言える史料でございます。でこの原本は、現在奥尻町にあります。

 この文献は松前家の成り立ちを上下二巻でまとめたものでございまして、松前家が「正統な武家の家柄である」事を幕府に対してアピールしたものなんでございます。

 ではなぜ、「新羅之記録」という名が付いたかというと、松前家の祖である武田信廣が、自らは清和源氏義光流の祖、新羅三郎源義光の子孫である「若狭武田氏」の出自であると名乗ったからなんですね。したがって、「新羅の子孫の記録」という意味というわけでございます。

 ですが、本当のところ、武田信廣の出身は詳らかではありません。しかし、これは戦国の下克上の時代、たいして珍しいことではありません。とにかく、公式には若狭武田氏の末流であるということなので、松前家の家紋は「丸に武田菱」を使っているというわけなんですね。

 この書物は、なぜ松前家が「蝦夷島」を支配する理由があるのかを、歴史的に正当化するため、幕府向けに編纂されたものであるから、松前家がどのようにして生まれ、そして、蝦夷を支配しているかを記録してあるわけです。

 ですから、すなわち多分に政治的な意図があるのですが、内容的には実に興味深いんでございます。

 さて、室町時代、蝦夷が島は奥州の俘囚の長、安倍氏の子孫である「安東氏」が、代官として下国家政、下国定季、蠣崎季繁が支配していました。松前氏の祖、武田信廣は上ノ国の蠣崎季繁について蝦夷地に渡り、客将として身を寄せたんでございます。

 この頃おこった蝦夷と和人との戦い、「コシャマインの乱」で武功を上げ、その武功を認められ、信廣は蛎崎季繁の養女と夫婦になり、蛎崎姓を名乗りました。そしてこの養女が下国家政の娘であったため、蛎崎信廣は下国家とも絆を深め、やがて周辺の館主を支配下に置くようになったわけでございます。

 さて、信廣の子光廣は本拠地を松前の大館に移し「徳山館」と名を変え、蝦夷地の和人勢力の代表となりました。その後蝦夷との勢力争いを繰り返す中、蝦夷との緊張がつのっっていくわけなんですが、四世にあたる季廣の代になって、蝦夷との宥和政策に成功し、蝦夷との共存関係がとりあえず成立しました。また、本家安東氏にも忠勤を尽くし、蝦夷地の代官の位置を確立したんでございます。

 そして、その子である五世慶廣は識見深い策謀家であり、蛎崎の立ち位置を安東家の代官の位置から独立させるため、中央の権力を巧みに利用しまくりました。そうです、蠣崎慶廣は並外れた外交感覚があり、決断力に富んでおり、戦国武将としての力量もかなり持っていたと言われます。

 天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐が終わり、奥州における太閤検地が行われる際に、検地奉行として秀吉の重臣、前田利家が津軽に入ると、慶廣はすぐに赴き、前田利家に秀吉への謁見を申し入れました。これを受け上洛した慶廣は、聚楽第で秀吉に謁見し、諸侯に列するという待遇を受け帰国。さらには奥州で乱が起き、その平定にも「諸侯」として参戦し、秀吉の信頼を深めたんでございます。

 さらには、文禄2年(1596年)秀吉の朝鮮出兵の際、慶廣はわざわざ九州名護屋の秀吉の本陣までご機嫌伺いに参上しているんです。このことを秀吉は大変喜び、蝦夷支配の「朱印状」を慶廣の願いに応じて与えました。これで、蛎崎家の「蝦夷支配」が確立したのでございます。

 さらに抜け目のない慶廣は、山丹錦=(当時の満州族の民族衣装)を身にまとい、徳川家康にも謁見したのでございます。見たこともない山丹錦に興味を持った家康にそれを献上、蝦夷地の地勢を述べたあとよしなを結び、関ヶ原の後に江戸に出府、蝦夷地支配の黒印状を拝領し、「松前」の姓を以後名乗る事になり、蛎崎慶廣は、初代「松前慶廣」と名乗り初代藩主となるわけなんです。まさに抜け目がございません。

 こうして、米のとれない「無石」大名格として、異例の待遇の「松前藩」が誕生するのでございます。しかもこの松前藩は内外の歴史事情により複雑に翻弄されるというわが国の「歴史そのものの行く末」の姿を呈しておるわけでございます。

 ここまでかいつまんでも、「大河ドラマ」が作れそうなストーリー性がある。史料としては若干疑問があるが、だからこそ「新羅之記録」。および「福山秘史」は実に侮りがたしでございます・・・。

 それよりも、武田信廣に関わる、黎明期の歴史については、蝦夷=アイヌ民族との攻防を軸に、実にダイナミックな展開を見せていくんでございます。特に蝦夷の長コシャマインとの攻防は、まさに歴史絵巻を見るがごとくです。時代はさかのぼりますが、このいきさつもしっかりと観ていくことにいたしましょう。  

 以下、次号


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