独坐大雄峰とマウンティング
今回は「禅の公案」の紹介から始めましょう、出典は「碧巌録」という公案集です。とりあえずは、読んでみてください。
さていかがでしょう。
なんとなくわかるような、なんかちょっと違うかな?みたいな印象ではないかと思います。
「独坐大雄峰」という言葉は、山のてっぺんに俺一人いるぞ。みたいな印象を受けるのですが、実は「大雄峰」は地名であって、百丈懐海が住んでいる場所でもあるのです。
だからちょっとややこしいというか、「大雄峰に囚われてはいかんぞ」という仕掛けにも思えるのです。
ですから、「いや、ここにぼっちで座ってる。」すなわち東京駅のホームのベンチに座ってる。みたいな意味でいいのかもしれないのです。
さて、そこで一ひねりです。では、それを聞いた僧は、なにゆえ平伏したのかということです。
一見、「俺は偉いのだ」という権威に平伏したように感じます。すなわち、「大雄峰」という権威が「素晴らしい」ということだと認めたということですね。
だから百丈は馬鹿者め!と棒で打った。
そう解釈することも可能です。
すなわちわしは「マウンティング」したわけではないぞ!と戒めたのだ。とも捉えられます。
しかし、よくよく考えたら、この僧は「大雄峰」に住んでいる百丈に尋ねたわけです。だから、自分も「大雄峰」に住んでいるわけですよ。
だとしたら、この僧はそれがわかっていて、わざと平伏したのかもしれない。という風にも思えるのですな。
百丈に対する答えともとれるし、自己アピールであるともとれるわけです。すなわち、本来「自分も主人である存在=独坐」が、平伏したら、どのような扱いを受けるか。
さぁ答えてみよという問を、逆に百丈に突きつけたとも言えます。
しからば「打たれるそ!」
百丈はこのように返答した。こう考えると、ふむふむと いろいろ見えてきます。
あたしたちは本来「独坐」であり、おのおのがそれぞれ「大雄峰」である。だから、卑屈になる必要がどこにあろうか。堂々と「独坐」で生きるが良いのだ。
我は我、人は人で、本来同等である。しかしながら「同調圧力」やマウンティングに囚われると、このように棒で打たれるのだぞ。ということが納得できる内容ですね
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