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いままでの経験則から言うと、「政治」に関わる事が好きな人っていうのは、得てして「攻撃的な人」が多かったように思います。
また、自分の利益のために政治に関わる人も多いかなとも。

伝統的に、わが国の「政治」ってそんなもんじゃないのかな。そんな事を最近になって思うのですな。
ましてや「政治家」になるには、半ば「世襲」に近い事も平然と行われている。率直な感想ですが、政治家というより「政治屋」なんじゃないのか?
そういう感覚ですね。

「政治力」がクローズアップされる時って、言ってみれば、
「社会が大変な事」になっている時じゃないのかと。
そんな事を思うのですな。
あ~だこ~だ。と言う前に、明確な指針を示す。
そういうのが「政治力」というものだ。そう考えるのですよ。

であれば、「政治力」なんて発揮する必要がない。
そんな社会状況がもっとも理想的なのかも知れない。
ふとそんな事考えるんですな。

よくよく考えると、「政治」ってなんだろうって思います。
そこには「決める」「選択する」
そういうものすごくめんどくさく、「責任」を伴う
「苦渋」な作業の連続があるからです。
はっきり言って、こんな決断なんか少ない方が良い
誰もが思うし、こんな場面はイヤなモノなんです。

これは「長」と呼ばれる立場になった人なら、
一様に感じた事かも知れません。

だから、決断を誰かに任せ、それについていけば
ある意味楽だよね、失敗しても、責任転嫁できる。
そういう考え方もできましょう。

だけど、「政治」という選択肢を誰かに任せてしまった
その結果は結構悲惨なものになる。
だから自分たちで決めようよ。そして、その責任は自分たちが負う
そういう考えで生まれたのが、「近代民主主義」でした。
だけれど、これはきわめて面倒くさい政治形態です。

そもそも、「政治」とは何をし、何をしないとよいのか。

単純に考えると、たぶん個々の思惑が複雑に絡んで、
何がよくて何が悪いのか・・。
そういう素朴な疑問にぶち当たると思います。

こういったぶつかり合いがあり、
それをどのように「治めるか」が「政治」なのです。

ただ、よく考えると、
政治とは「強制力」を持つと言う事です。
そのため、共通した理念や慣習、ルール(法)が
その力のコントロールを果たすと言う事です。

同様に経済もまた、economyの訳語を「経世済民」
にあて、「経済」という新語を造った明治の民
「商売」と民衆の「幸福」に接点がある
そういう感覚を持ったからなのだと思います。

「政治」の話にもどりますが
人は様々な選択をしながら、生きる営みを続けます。
その選択の責任を、人にゆだねるか、
あるいは自らが負うのか。

これが「政治」なのだと言う事です。
自己決定の結果は、自己責任です。
だから、迷いのすえに「決断」する。
迷いたくなければ
責任放棄すれば良いが、結果は同じです。

このように答えがないところに
答えを見いだそうとするなら
「社会」そのものは何か
そういう事から考える事が必要になるのだろう。
そんな事を感じます。
それが、「政治」に関わる事なのでしょう。

そういえば、学校の「社会科」って
暗記が結構必要ですが、その暗記以上に
暗記した事を「疑う」事が大事で、
その疑う根拠は何かを考える事が
大事な要素なのかな。そんな事を感じます。


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