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【美しい女性】

美しい女性は、背筋がぴんと伸びていて、
まっすぐに前を見ています。その美しさはオーラのようなもので、言葉ではとても表せないもんです。

どんな人も、一つ一つのパーツは似たり寄ったりであり、個々の造形が勝れているとか、しょぼいとかそういうものではないですな。どんな人も眼は2つあり鼻も口も同じような形で特に大きな差異はありゃしません。それは、若くても歳をとっても変わるものではないですよ。

人は、それぞれの年齢において、その美しさの質が変わります。50代の女性の美しさは10代の女性には無いものであり、性質が違うもんなんです。

違いはそれがどのように配列され、どう美としてオペレートされているかなのではないでしょうかね。
これらは、不断の努力というか、心がけでずいぶん変わるってもんです。

「人は外見で決まるものではない」
こう主張する人は、美しい人じゃあありません。自分のまずさを他に転嫁しているからこういう論理が成り立つんです。
こういう人は、人は中身で勝負すると豪語するが、中身が悪いから外見が悪くなると言うことにまったく気づいていません。こういう人たちが認識する外側だけの美は、所詮外側だけであり、本当の美ではなくむしろ醜悪ですらありますなぁ。

すなわち内面がまずい人はそれに比例して外見も悪くなるのですな。

若い女性の美人比率と、オバサンの美人比率は圧倒的に若い女性の方が高いですな。これは何故なのかというと、美しさというものはいくつかの構成要素からできており、これらは実に壊れやすく気をつけて扱わないと、あっという間に目減りするからです。また、反対にいくつかの構成要素を加えて新たに変化しながら輝きを増すこともあります。

よく、若いころに美人だといわれていた人が、オバサンになったらそうでもなくなったという例が見られるけれども、それは、その人の持つ美の構成要素を使い果たした結果、その人を美しく見せていたものがなくなり、醜いものに化学変化してしまった結果なんですよ。

美しい人がその構成要素を壊さないでいられる一番のポイントは、「生活の美しさ」とでも言うべきもんです。これは女性に限らず、男性であっても同じ事が言えますなぁ。
 近年見られるメタボのオジサンなどは、まさしく生活習慣のなせるわざであり、「美しくない生活」を送ってきた、なれの果てがあのぽっこりのおなかなのですよ。まぁ、あたしも人のこと言えた義理じゃないんですがね。ψ(*`ー´)ψ
 特に美にこだわる女性は、本来持っていた美しさをどんどん化学変化させ、「そのへんのオジサンオバサン」になってしまうという寸法ですよ。

人は、生まれてきたその瞬間に、美しいとか醜いとかという一切の分別なく、ただ、生まれてきます。これが美醜を別けるのは、その後に続くさまざまな構成要素がからんで、来るわけですが、そもそも本来ひとは「美しい」ものなんです。なぜかっていうと、はからいのない自然なものは、その造形がどうあれ、「美しい」と感じるもんでしょう。一番いい例が大自然のはからいのない美ですよ。それを美しいと感じるのは人の勝手で、美しい自然はただそこにそのままあるわけだから。人が死に向かって生きてるっていう、あたりまえの緊張感の中で、無駄にしない生き方や生活をすれば、人は美しさを失わないもんですよ。

先日、出張先のホテルでたまたまランチタイムにぶつかったものだから、ランチバイキングに行こうかという話になったんですね。ところが、ホテルのレストランがものすごく混んでて行列ができている。最近は格安でバイキング形式のランチメニューが食べられるようになり、特に専業主婦のオクサマたちには人気だと言うことですが、いくらバイキングとはいえ、テーブルは限られているので、料理はそこにあるものの、席が一杯で座れないわけです。

「ったく、早く出ろよ~。」
という悪態をつくと、醜いオジサンの成分が生まれるので、我慢しながら、何故混むのだろうと冷徹に分析してみました。
店内は圧倒的に女性が占めていました。バイキングとはいえ、ホテルのレストランですからねぇ、皆それなりにおめかしして、いい服着てます。メイクもばっちりです。
 テーブルのメンバーが料理を取りににいってる間、席を取られまいと番をしている女性が一人、まぁ、おそらく強迫観念からなんでしょうが、ちゃんと席は担保されているから列ができるんであって、まったく無駄な事をしています。ですが、絶対に盗られるものかとキッと周囲を見回し、威嚇する顔に美しさはあえなく潰えて鬼顔になっています。

料理を取りながらおしゃべりするのもやめて欲しいものです。少なくともオープンキッチンなわけですから、料理の前で話をするということはエチケット違反です。バイキングの料理は、いろんな人が食べるものだという基本的な思いやりが欠けています。こういうところから美の化学反応が生まれ、卑しい自己中な顔になるもんです。

問題はテーブルにある程度落ち着いてから、まずは元を取ろうとしてるのか、何度も何度も料理を取りにいく人、それよりも、食べ終わった後に延々と席を占領しておしゃべりにこうじ、空席を待っている人を尻目に、なかなか席を立たない人たち。こういうグループに、まず美人は混じっていやしませんね。仮に目鼻立ちがいいにしても、それ自体が化学反応してオカチメンコな顔に見えてしまうから不思議です。バイキングならまだしも、普通のレストランのキャパシティの小さい人気店でこいつをやられると、その化学反応は倍加するってもんです。

 美しい人は雰囲気を感じて絶妙のタイミングで店をにこやかに出て行く。おいしいものを食べ、満ち足りた顔の女性は、そら~美しいですよ。

あたしゃ写真やってるもんですから、時々モデルさん撮らせてもらうことがあるんですが、いくら造形がよくたって、モデルがその気になるっていうか、何となく気乗りしてない感じの時って、ホントにいい顔はしませんね。
あ~、レンズがこわれっちゃう。なんて思うこともあるんですよ。だけど、駆け出しのモデルさんでホントに心が素直な子ってのは、スキルはないけれどいい顔してますね。そういうときは、無理に顔作らなくたっていいよって言いながら馬鹿話、カメラマンジョークって言うんですが、そういうのをやるんです。そうするとすごくいい笑顔を見せますので、こいつが実に美しい。


はからいのない時の笑顔ってのは、ホントに美しいですよ。赤ん坊の笑顔なんていうのはその最たるもんでしょうなぁ・・。
 てなところで考えるんですよ。 まてよ、美というのは「自分が作ったり作為する」もんなんかじゃないって事に何となく気づくわけですよ。つまり、美は自分を見た人の心が決めるって事なんじゃないかということです。だから、無理して取り繕ったり、見た目ばっか気にしてゴテゴテ飾り立てても、これっぽっちも「美しい」と感じる心が動かないわけなんです。まぁ、こういうのに美を感じる人は中にはいるんですが、そういうのはマニアの部類にはいるでしょうなぁ。ψ(*`ー´)ψ

結論から言うと、その人の心根や、生き方のスタイルが美しいと、自ずから美は作り出されるもんなんでしょうね。つまり、この人は美しいと感じさせるものは、その人の内面からにじみ出て、それが外面に現れる。生活がだらしないとだらしないスタイルになるし、逆にきりっとしているときりっとした姿かたちになるわけですな。だから、美しい人になるためには、自分の生活やら考えやら習慣やらをもう一度きちんとデフラグ(最適化)せにゃならないんでしょうかね。そりゃ~、偉そ~に言ってる自分も含めてですがね。このメタボはなんとかせにゃならん┐(  ̄Ψ ̄)┌

 それにしても女の人は、ホントに内面がすぐ顔に出ますなぁ。それだけ表現力があるって事なんでしょうが、その日の気分が本当に顔や姿に現れるもんです。次回は具体例をあげながら、女性から醸し出される、美の構成要素である「ビトハアイダロゲン」の分泌について、語ってみせやんしょう。 おそまつさまでした。


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