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”学び続ける教師”という言葉が苦手だった

教育の世界でよく聞く言葉。


”学び続ける教師”


良い教師を表現する
象徴的な言葉。


苦手だった。



<学び続ける必要性>

教育大学を卒業して
そのまま何十年も
知識のアップデートをしない
教員は少なくない。



別にそれは
一生懸命働いていないわけじゃない。


ただ自分が受けてきた教育を
再生産していることに
なんの疑問も持たずに



それが良いことだと
信じ続けている教師。



学校の中は
時間が止まっていることが多い。
社会の変化に鈍感になりやすい環境。


でも学校が社会とつながっていること
子どもたちは社会に出ていくということ。



それがある限り、
教師が学び続ける必要性があるのは
納得できる。



<必要性が高くなる動機>

教師が学ぶ必要性が高くなる
動機のほとんどは
”子ども”



向き合おうとする子どもの数が
多ければ多いほど
その必要性は高くなる。


学級をどんな風にマネジメントすれば
子どもたちは安心できるだろうか。


この子は、どんな方法なら
学びやすくなるだろうか。


この子の特性は
どんな風に生かしてあげられるだろうか。


そういうことを考えるほど
教師は新しい知識やスキルを
得たいと思う。


だから私は、
子どものために学びたいと思う教師
素晴らしいと思う。



<苦手になった理由>

それでも
”学び続ける教師”という言葉が
苦手になった理由は



「多忙」と「煽り」
だったと思う。


多くの教員が
忙殺される毎日を送ってる


声を枯らす
喉をつぶす


お昼ご飯の給食は何を食べたか
覚えていない


気づけば
1日中トイレに行ってない。


分刻みで動いて


頭の中はいつもいっぱい。


常にマルチタスク。


気づけば、夕方。そして夜。


人は余裕がないと
”知識欲”が奪われていく。


両手いっぱい抱えていたら
さらに、抱えることは難しい。


そんな中で
”学び続ける教師”という言葉に
「煽り」を感じるようになった。


”学び続けていない教師”はダメな教師。
そうなりたくないから、学ぶ。


そういう感覚になった時から
この言葉が苦手になった。




<優先度を下げる>

この言葉で苦しい思いを感じるなら
いっそ、”学び”の優先度は下げた方がいい。


教師に余裕がない中で
学びへの優先度を高くするのは
結局、誰のためにもならないと思う。


本をたくさん読み
講座をたくさん受け
いろんなノウハウを知っていても


子どもたちの前で
疲れていたら
元も子もない。


教師自身が
最も大事な教育環境だと思う。


何を学んでいなくたって
何を知らなくたって


子どもたちのために
たくさん笑っている先生の方が
絶対いい。



<根本的な原因>

私がこう思う、根本的な原因は
勤務内で教員の学びを保証しない環境だと思う。


その環境が全くないわけではないが
教育委員会主導の研修には
多様性が乏しい


子どもの多様化に対応するには
それでは足りないのが現状。


そうすると
教師の学びは結局
「個人の努力」に任される。


本を買うにも
講座を受けるにも
お金がかかる。


教師の学びは
個人の経済事情にも
左右される。


ちなみにオランダでは
教員1人1人に毎年、研修費として
13万円(2017年当時)が支給される。


それによって
進化していく指導法や教材を入手したり、
社会課題を学んだりできる。


そうやって教師の質を
確保している。


日本は
”学び続ける教師”という言葉ばかりが広がり
”学び続けられる環境”がつくられていない。


そこに、少しの
苛立たしさを感じる。

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