「感謝しましょう」の大ウソ
引き寄せ界隈の本を読んでいると、必ずと言ってもいいほど「感謝しましょう」と書いてある。
私はこれがどうも気に食わない。
実にもっともらしいし、誰も反論しないことをいいことに、そしていかにもスピリチュアル的な「無難な」言葉であることをいいことに、手垢にまみれてヘドが出るほど使い古されている。
だが、私はここに大いに欺瞞を感じる。
また、安っぽく、思慮のない、下品さを感じるのだ。
これは、ひとつには私自身に原因があるかもしれないことを予め認めておこうと思う。
感謝するという言葉からは、「それをしてくれた誰かに対して」というイメージがつきまとう。
相手が純粋な優しさや親切心で何かありがたいことをしてくれたなら、私でも素直に感謝の気持ちを感じられる。
ところが、現実にはそんなシンプルで美しい素直な感謝ばかりではない。
たいていは何かとの取り引きだったり、恩着せがましい態度が鼻についたり、社交辞令から頭を下げていかにもありがたそうにお礼を言うハメになったりすることも少なくない。
お礼を言わないと、相手はどこか不満を感じるに違いがなく、それを避けるための「ありがとうございます」であることもある。
つまり、ほとんどの場合、「無条件の優しさ」や「無償の愛」に対する「ありがとう」などということはないのである。相手は多かれ少なかれ、そして有形無形の「お返し」を期待するのである。それをこちらも感じ取るから、素直に純粋な「感謝」と言うわけにもなかなかいかないのだ。
社会に揉まれていたらこれは別にそれほどひねくれた考えでもないだろうと思うのだが皆さんはいかがだろうか。
また、スピリチュアルやら引き寄せやらの文脈で語られる「感謝しましょう」とやらには、およそスピリチュアルらしからぬ「打算と欺瞞」のニオイが漂っているのである。
「感謝しておけば、あとあと何倍にも返ってくる、願望が叶う。だから感謝しておこう」
そんな魂胆が鼻の穴やら口の端やらからダダ漏れしているのである。
それでいて本人たちはいかにも「波動の高いことを言っておりますのよ」などとエンジェルだのスピリチュアルリーダーだのを気取ってタワゴトを吐き垂れている。そしてまたそれを聞いてありがたく手を叩いて喜ぶ信者がいるのだからことごとく始末に負えない。
古今東西、スピリチュアルだの教会だのと神聖な言葉を掲げる場所ほど、その裏では人間の低俗で下劣な本性が厚かましく剥き出しにされているものである。
感謝というものは、わざわざしようと思ってするものではない。それは自然と湧いてくるものである。
愛も、わざわざ愛そうと意図して愛するものではない。自然と湧いてくる気持ちである。
「感謝しましょう」「愛しましょう」という教えは、自己欺瞞に気づかぬ不届き者による商業的なセールストークに過ぎないのである。
そういう経緯で、特にスピリチュアルやら引き寄せやらの文脈で語られる「感謝しましょう」というアドバイスやら教えやらは全くもって気に入らないし、そういうことを平気で口走る輩を私は全く信用しないのである。
だから私は「感謝します」とぶつぶつ自己欺瞞の念仏をこれ見よがしに唱えるよりも、「これは好きだ」と心のなかで言うことにしている。「I like it」ということである。
これなら全く無理がない。
「感謝」につきまとう先述したさまざまなドス黒いヘドロのようなイメージにつきまとわれることがない。
ただただ素直に「それが好きだ」と心からまっすぐに抵抗なく思うことができる。
人工的で意図的な、打算的にひねり出される「感謝」のような不愉快さが全くない。
なんと自然で素直なのだろう。
これである。
これこそ自分の気持ちに耳を澄ませている証だ。
ちなみに、エイブラハムは
appreciation
の気持ちが大切だと言っている。
appreciation とは何だろうか?
ほとんどの日本人は「感謝」と訳して疑わない。
ところが、appreciation にはそもそも「高く評価する」という意味がある。つまり何かを「素晴らしいと思う」ということである。
実際、エイブラハムは、「自分が素晴らしいと思うものに目を向けなさい」「犬がクンクン匂いを嗅いで『ああ、これは好き、これも好き、あ、あっちにもいい匂いがする。これも好き』と好きなものを嗅ぎまわるように、あなたがたも自分の好きなものに関心を集中させなさい」と言っている。「感謝しなさい」ではないのである。
さらに、エイブラハムは「appreciation と gratitude は同じではない」と言う。
gratitude こそがいわゆる「感謝」という意味である。「何かしてくれて、ありがとう」ということだ。「交換条件に基づく感謝」「何かとの引き換えでの感謝」である。それとは違うとハッキリ言っている。
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