あの場所へ

 俺はお笑い芸人、吉野家ミッキー。世間では若手なんて言われているけど、実はもう三十九で、再来月の誕生日が来たら四十になってしまう。
芸人の仕事だけじゃまだまだ食べていけないので、いまだにアルバイトの毎日。今月も家賃を滞納してしまっている。
 深夜、お笑い番組を見ながら実家から送ってきた安い焼酎を呑んでいると、突然涙が溢れてきた。
 もう限界だ。このまま死んでしまいたい。
 俺は発作的にキッチンへ行くと、棚から包丁を取り出し、自分の左手の手首に、押し当てた。
 薄れていく意識の中、両親やバイトの先輩や関わった色んな人の顔が浮かんでは消えていった。最後に目に映ったのは、画面に映し出された国民的お笑い芸人、ダイソンタイソンの増元さんの顔だった。
 次生まれてくるときはあの場所までいけたらなぁ。そのまま俺は完全に意識を失った。
 それからどれ位意識を失っていただろう。目が覚めて辺りを見回すと、そこは全く見覚えの無い部屋だった。
 頭がガンガンする。また飲みすぎてしまった。嫌な夢をみた。ここはどこだろう。とりあえずトイレを探そう。
 俺はのろのろと立上り部屋を出ると、洗面所と思しきドアを開けた。そして鏡に映った自分を見て驚愕した。そこには憧れの、ダイソンタイソンの増元が映っていたからだ。
 も、もしかして、俺、増元さんに生まれ変わったのかな。ほっぺたをつねったり、鼻毛を抜いたりしても、普通に痛いし、くしゃみが止まらない。これは間違いなく現実だ。
 そうこうしているうちに、ケータイが鳴った。出ると増元のマネージャーからで、迎えの時間でマンションの下に着いたとの事。
 そのへんにあった服をとりあえず大急ぎで着こみ、慌ててエントランスまで降りて行った。
 マネージャーは普通に挨拶してくる。やっぱりマネージャーの目にも増元に見えているようだった。
 言われるまま、後部座席に乗り込むと、車はそのまま走り出した。
 車の中でマネージャーから今日の仕事の簡単な内容を説明されているうちに、車は劇場の車寄せに滑り込んだ。
 おはようございます、おはようございます、おはよー、おざーす。
 すれ違う人、みんなが挨拶してくる。やっぱり増元に見えているようだ。
 楽屋に入ると、相方のハマダ正直がスポーツ新聞を広げ、読みふけっている。
「おはようございます!」
「なんで敬語やねん」
「あ、ああ、そやんな、おはようっす」
「あ、ああ、おはようさん」
 相方のハマダも全く気付いていない様子だった。今日はこれから生のライブで久しぶりにネタをやるらしい。大御所たちが名前を連ねる中、ダイソンタイソンはトリだった。
 俺もダイソンタイソンのネタはビデオで言えば擦り切れるほど観てきた。DVDだからそれは無いけど。でも実際上手くやれるのだろうか。ヤバい。死ぬほど緊張してきた。どうしよ。緊張しすぎてお腹痛くなってきた。
 衣装に着替えたり、メイクしたりしているうちに、舞台監督がやってきて、出演の時間を知らされる。にしてもハマダさんのこの余裕、なんやねん。
「よし、ほないこか」
「あ、ああ」
 ステージに上がると、千人は収容出来るであろう会場は超満員で、客からの大声援が巻き起こっていた。
 見た目は増元だけれども、中身は俺のまま。どう考えたって自信ないけど、でもこれはもう仕方ない。覚悟を決めて喋り始めた。
 最初はちょこちょことスベる場面もあったけど、さすが憧れのハマダさんのツッコミは的確で、会場は大爆笑のうちに幕を閉じる事が出来た。
 これか。スターが見ている世界は。
 感動で涙がこみ上げてきた。実家のお袋にも見せたかったぜ。次は絶対ここまで上り詰めてやる。
 舞台袖から楽屋に抜ける通路で、ハマダと行きあった。
「今日はなんかいつもと違っとったけど、なんかめっちゃおもろかったんちゃうん」
「ま、マジっすか、あざーっす!」
「なんで敬語やねん」
 俺はさっきまでの極度な緊張と、それが解けた安堵感とで変なテンションになり、その場に昏倒した。
 それからどれ位意識を失っていただろう。気がつくとそこは病院のベッドの上らしかった。
 椅子に座っていた相方が顔を上げる。左手の手首は包帯が巻かれていた。
 枕元の鏡を手に取ると、そこに映っていたのは、「俺」だった。
  



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