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「今、ここ」にあるもの

先日の名古屋でのライブは結果、やはり現地まで足を運んで良かったと思えるものにすることが出来た。盟友石田ショーキチ氏が自転車で大阪までツアーに出たのをweb上で見ていたことで、自分もこの状況下で何か出来ることをやりたいと思ったのがきっかけだった。もちろん自分は自転車ではなくクルマで行ったけれど、往復は大渋滞に巻き込まれたおかげでいろんなことに思いを巡らせることが出来た。

配信メインならどこでやっても同じじゃないかという意見もあると思うが、実際にやってみて感じたことがあったのは確かだ。50/50というタイトルは自分が50歳になったということもあるけど、この際セットリストの約半分をカバー曲でやってみるという新しいチャレンジもしてみた。自分のルーツからリスペクトする音楽仲間の曲まで、歌ってみてはじめてわかるその曲の強さのようなものをあらためて感じることが出来た。

ライブと配信は全く違うものであることは間違いない。ライブ中のMCでも言ったが、それはまるで花火のようだと思った。

花火は広がる大きな空いっぱいに広がる光と音、そしてそれを取り巻く状況が一体となってひとつの経験になる。テレビで花火の中継を見ていてもあまり面白くないのは、きっとその経験に必要な他の要素が感じられないからだろう。

そこにあるのは、「今、ここ」の感覚である。花火にはその瞬間に散っていくゆえのはかなさがある。当然だが、全く同じものは2度と見ることは出来ない。ライブも同じだ。今日の自分と、明日の自分は同じではない。同じ曲を歌っても、同じ演奏は2度と出来ない。僕たち日本人は特に、その瞬間にしかないものへの特別な思いがあるような気がする。写真は帰り際に撮った夕焼けの駿河湾だが、この空もこの日限りである。

ライブと配信では、僕たちが感じられる情報量に大きな差があることは間違いない。でも、web上ではコメントやSNS上でのやりとりで、それを同時に見ている人たちと繋がることが出来る。今更だが「今、ここ」のweb上での共有は新しい経験であり、そこに何か大切なものがあるような気がした。面白かったのは、会場とwebでの繋がりがステージでもリアルに感じられることだった。頭では理解していても、やはりやってみて実感することは多い。

記録されてアーカイブされた瞬間にそれは過去のものになってしまうが、同時にそれは「今、ここ」から解放されることにもなる。それは写真のアルバムのようなものとして記憶のスイッチを入れるタイムマシンのような役割を果たしてくれるのだ。そして僕たちがレコーディング・スタジオで目指すのはその究極の形だ。

これから先、どんな形で音楽が機能していくのか自分にはわからないけれど、それぞれがそれぞれのやり方を見つけていくことんになるんじゃないかと思う。まだまだ模索する日々は続く。

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この日の朝、旧知のミュージシャン、片岡知子さんの訃報を知った。彼女とは「ようこそ夢街名曲堂へ」というラジオ番組のスタートからしばらく、長門芳郎さん、土橋一夫さんと一緒にレギュラーを努めさせてもらった。いくつものイベントにもご一緒させてもらったし、何より番組のために自分が書き下ろした曲「welcome to dreamsville」で印象的なトイ・ピアノを演奏してもらったことが思い出に残っている。彼女のフレーズがなかったら、この曲の印象はずいぶん変わっていたはずだ。正直、かなりショックが大きくてこの日のライブをどんな気持ちでやったら良いのか悩んだけれど、この曲を演奏すると決めたことで、音楽に向き合う気持ちになれた。instant cytronをはじめとする彼女の素晴らしい作品たちは、これからも「今、ここ」から解放されて生き続けるはずだ。ともちゃん、たくさんの素敵な音楽と思い出を、ありがとう。


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