自己肯定感なぞいらぬ
「トーヤ君、自己肯定感高いよね」
ちょいちょい言われてるんだが、すっげぇ違和感があった。
確かに自分で天才だの神だの言ってるので、自己肯定感とやらは低くはないんだろうよ。
でもね、本気で周囲の人の方が天才だと思うし、自分自身人類の底辺だなって自覚もある。
いや、地球上の生物レベルで底辺か。
だからと言って、自分自身を天才だと強がって言ってるのかと言えば、これまた本気で言ってる(笑)
先日、平野啓一郎の講演会へ行ってきた。
平野啓一郎と言えば「分人」というキーワードで有名なんだが、知らない人は以下を読んでみてね。
結構面白い概念なんだけど、凄く類似した概念を15年位前に考えた事がある。
(なんだろ、負けん気で言ってる訳じゃないからね!)
そんな事をトーヤが考えたきっかけは、相方が母親として苦しんでた時があったのよ。
男性であるトーヤは、その苦しみがさっぱり分からなかった。
ただ「母親」として苦しんでる事は理解できた。
という事は、
ひとりの人間には複数の役割がある
事なんだと気付いた。
そして、複数の役割のひとつくらいなくなったって死にはしないだろう、嫌なら逃げたっていいじゃんという考えに至った。
例えば、トーヤは
・サラリーマンであり
・父親であり
・男性であり
・日本人であり
・人間である
と。
もっともっと小さく分ける事も出来る。
・福岡県人であり
・北九州市民であり
・北九州市立中学校卒業であり
・大学中退者である
とかね。
そのそれぞれで、どうしても辛いんなら捨てたらいいじゃん…とトーヤ個人的には思ったんだけども「母親を捨てたらいいじゃん」とは言ったような言わなかったような…
まぁ、そんな思考だからサラリーマンくらいは容易に捨てられるのよね
んで、この分人の話を聞いた時に
「この概念があったら”自己否定感”ってのは存在しないんじゃないか」
と漠然とひらめいた。
だって、自分の中に複数の分人がある事に”気付く必要がある”んでもの。
その漠然としたものを図示したら、個人的にはしっくりきた。
![](https://assets.st-note.com/img/1688403388303-EB5ih4Yg9W.png?width=1200)
つまり、分人の理解とは評価軸を自分にする事。
その上で、
「これは大好き!」「これは超得意!」
みたいな高い評価を付けたり
「出来ればしたくないなぁ」「何度やっても出来ないわ」
みたいな低評価を付けたりする。
これにより自己評価と自己否定が認識できる。
そこには「感」という言葉はない。
だって、実際に自分の中の分人に対して自分自身が評価してるんですもの。
それに対して、評価軸を他人や社会に置いた場合。
そうねぇ、例えば偏差値65の大学へ行ってたり、年収700万円のサラリーマンの場合を考えてみよう。
「あいつより良い学校へ行ってる」「平均収入より高い給料もらってる」
事を高い評価としてる人はきっと自己肯定感が高いんだろうと思う。
逆に
「兄貴は東大に行ったのに…」「こんなに頑張ってるのにこの程度の給料」
なんて事を思ってる人は自己肯定感が低いんだろうと思う。
んでね、ここで言いたいのは世の中にありふれた言葉の
「他人と比べるな」
なんていう生ぬるい事じゃなくって
自己認識・自己アセスメントしなさい
って事。
まずは自分の中にどれほどの分人があるのか因数分解してみる。
んで、それぞれの分人を楽しんでるか、それともしんどいのかを明示的にしてみる。
更に、その分人が今の人生でどれほどの割合・役割を負ってるのかを考えてみる。
最後にあんまり面白くないし人生に役立ちそうにない分人ならアンインストールしてしまえばいいじゃん、と(笑)
そんなこんなで、もし自己肯定感が低いなんて事で悩んでるならば「感」を取り除く努力をすれば楽になれると思う。
ただね、これは慣れてない人は簡単な事じゃないのは理解できるのよ。
「感」を取り除くってのは、白雪姫の魔女が鏡の前に立つ事と同じなので。
ありのままの自分を見つめないといけない。
出来ない自分も認知しないといけない。
スッゲェ勇気と努力が必要よねぇ…
そう考えるとね、一生自己肯定感の低さで悩んでた方があなたにとっては楽なのかもね、と思う今日この頃なのですよ。
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