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自動運転について大津市の事故から考える

 滋賀県大津市で起きた、保育園児の列に車が突っ込み、2人のお子さんが亡くなった事故はなんともいたましい限りであり、さまざまな波紋を呼んでいる。亡くなった園児のご冥福をお祈りするとともに、ご家族、関係者の方には心より哀悼の意を表したい。

今の自動運転の開発段階

 その後のニュースで警察が直進車のドライバーを釈放したと聞いた。直進優先の道路で、無理な右折をした車に比較して直進車の責任は軽いと判断されたのだろう。それを聞いた時、もしも直進車が自動運転車だったとしたら、このような場合、どのような制御をすることが妥当だったのだろうという素朴な疑問が頭をよぎった。この事故は、一般道での自動運転の実現への高いハードルを示しているように思われるからである。
 自動運転システムの実現に関しては、さまざまな研究開発が行われているが、現状では「道路上において車両を自動運転しているプロセスで他の自動車や歩行者に衝突しない」ことの開発に主眼が置かれている。いわば車両の自動運転としての第一歩、当たり前の機能の開発を行っている段階であろう。
 しかし、いくら安全に設計しても自動運転車でも事故は起こりうる。自分は安全運転でも、今回のように他のクルマの想定外の挙動に巻き込まれることもありうる。つまり、万やむを得ず事故が発生してしまったときの自動運転車の制御をどうするかについても今のうちに検討しておくべきことを今回の事故は教えている。将来を見据えて今回の事故から学ぶべき点は多い。

これまでのミッションクリティカルなシステムと自動運転

 自動車以外の世界では、いわゆるフォールトトレラントコンピュータやインターネット通信などにおけるルーター他の通信機、また交通機関でもユリカモメなど、すでに自動運転が実用化されているシステムは多い。しかし、これらは外部とのインタフェースが予め一定の範囲では規定できるシステムであると言える。障害の発生についても自らのシステム内に起因する障害を想定するだけでシステム設計が可能である。
 もちろん、インターネットの場合には外部からのアタック等想定できない障害原因も排除できず、その場合には最悪システムを停止せざるを得ない場合もある。しかし、その場合でも「システムの停止」という最悪の状態をあらかじめ想定できる点が今回の大津市の事故とは大きく異なるように思われる。

自動運転だからこそ衝突が起きてしまった後も重要

 大津事故の場合には、停止しているであろうと想定した右折車が想定外の動きをしたことにより、衝突事故が発生し、さらに衝突した車両が本来自動車が走行することを想定していない歩道に突っ込んで傷害・死亡事故が発生している。現在の自動運転の研究開発において、このような衝突が発生してしまった際のその後の自動車の挙動をどうするべきかについての研究開発は、どの程度進んでいるのであろうか。おそらく、これからの研究に待たねばならない部分が多い状態にあるのではないだろうか。今回の事故は自動運転にこれまで考慮に入れてきた以上の課題を投げかけているのではないかと思われる。

複雑なシステムの中の一要素としての自動車

 これまでの自動車というシステムは、人間が運転する限りにおいては、自己完結的な閉じたシステムであった。自動車単体が、走る、曲がる、止まるが完璧にできれば、他との関係は運転者の責任において処理されてきたのである。ところが、自動運転車では、この自己完結性の境界が溶解し、他の車、歩行者、自転車、道路等のインフラを巻き込んだ複雑なシステムの一構成要素として自動車を捉えなおさねばならなくなる。
 システムからの要求条件を満たし、システムの他の構成要素とのインタフェースを定義し、必要な情報を受信し発信し、それに応じて適切にふるまわねばならない。さらに難しい点として、このシステム内での様々な異常な事態、自分自身の故障や他者の異常な振舞いにも適切に対処する必要があげられる。これらは単にコネクテッド・カーなどと、車に通信機能が搭載されるだけで自動的に解決される問題では到底ない。

自動運転と開発文化

 上のような点において、自動運転というものは、自動車の開発者の視点にコペルニクス的な転回を要求するものであり、今までとは次元の異なる視点から物事を見た設計を求められる。さらには、それらが設計者の意図に従って、その通りに動作することを検証することを求められる。
 もちろん、自動車メーカーの皆さんはそんなことは先刻承知なはずである。しかし、システムの開発という行為はある種の文化的環境の中でなされるものであると私は考えている。あえて「文化的」という用語を用いるのは、ものごとの発想は、それを実行する人が育った「文化」により、規定されるからである。どのような事故が想定されるかを検討する際に、どこまでが「想定内」でどこから先が「想定外」かというのは、技術的背景というよりもむしろ「文化的」背景により規定されるものである。この開発技術者集団の開発目的に適合した文化的背景の転換は、一朝一夕で実現できるものでは決してない。
 ミッションクリティカルなシステムの開発文化というものを、自動運転の開発文化の中にどう醸成していくかという課題は、ひとり自動車産業の中だけで済むような簡単な話ではないように思えて仕方がない。

追記 登戸での登校児童殺傷事件以降、大津市の事故は霞んでしまった印象を受ける。しかし、社会に対するリスクの大きさの程度では、どちらもそれほど変わらないのではないだろうか。

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