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「あそび」を取り戻せ

昨日、カマクラを作った。
真冬のKOTELOはやっぱり雪深く、正直、予想以上でびっくりしている。

ただ、積雪は多いが、学校が雪に埋もれる姿、校庭一面が雪の絨毯になっている姿、学校から見える雪景色は何とも言えないものがある。
そして、冷たいけど空気が凛としている。何か研ぎ澄まされる感覚にもなる。

寒いのと、KOTELOまでの雪道運転を除けば、冬のKOTELOに可能性を感じる。

昨日、カマクラを作った。

毎日、降り続ける雪が場所によっては1mくらいになっている。どこを見ても雪、雪、雪。

この雪を最大限使ったKOTELOらしい事をしたいな・・・と思って、カマクラを作った。

たった1時間弱、ただひたすら雪と向き合った。

除雪のような『やらなければいけないこと』や『やった方が良いこと』とは違って、『やる事に意味はないこと』として真っ白い雪と向き合った。

パソコンの画面なんて見えないし、スマホも持っていない。誰も居ないから声もかけられない。

真っ白い中、ひとりぼっち。

何を考えていたのかな?思い出せない。

ひたすら穴を掘って、屋根に積んで、掘って、積んで固めて掘って。真冬の中で汗だく。

ダウンからレインウェア、ロンTになって15分、気付いたらTシャツだった。

そこには、資金繰りもない。人財育成もない。採用活動も、営業活動も、戦略も戦術もない。

毎日の私自身を捉えて離さないもの全てが無かったような気がする。

1時間弱の格闘の末、翌日の全身筋肉痛の中、手に入れたサテライトオフィスはあまりにも狭くて、あまりにも最高なものだった。

先日、noteに書いた「Humankind~希望の歴史~上・下」の中で「子供たちの遊びが奪われている」ということが書かれていた。

学校や宿題、習い事やスポーツクラブなど「大人が用意したやること」が多すぎて、「遊ぶ」時間が全くなくなっているらしい。

ちなみに、この本の中での遊びの定義は

・規則や規制に縛られることなく、自由で拘束されないもの。

・自分の頭で考え、リスクを冒し、安全圏から外に出るもの。


この遊びを通して、子供たちは心を鍛え、意欲を高めると言われている。

その「遊び」の時間が奪われている。

遊ぶ時間が奪われていって、何が起こるか?

遊ぶことが出来なくなった子供たちは、大人になった時、人生は自分でコントロール出来るということを思えなくなるらしい。自分の人生は他者によって決められていると感じる子供たちは年々多くなってきているらしい。


そりゃそうだ!

「これやりたい!」という思いが発露され、実現するために力を尽くすことが、自分の人生を自分のものにすることだと思う。

「遊び」はそれを体験出来るもの。絶対に大切なもの。

昨日のカマクラ作りも「遊び」だった。

誰かから、「カマクラ作ったらどうですか?」と言われたわけではない。

私自身が「カマクラ作りたい!」と思って、その思いに純粋に従っただけ。

「カマクラ作り」を通して何かを得たわけではないと思う。誰かに褒められたわけでもない。

ただただ、私は私の「やりたい!」を発露することが出来た。

その体験が意味あるものだと感じた。

大人になっても「遊び」は必要。みんなで、もう一度遊ぼう!




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