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雀の学校からの脱却

本日は、妻と息子がプールに行くというので、0歳の娘と一緒に家にいた。
いつもよりたくさんコミュニケーションを取ったり、何を考えているんだろうとじーっと観察する時間が長かった。
自分の子どもには幸せな人生を過ごしてほしいと思う。
だから、良い社会で生きていってほしい。(これは、『きみのお金は誰のため』で学んだこと)

社会っていうのは、人によって作られるものだから、やはり良い教育が必要になってくる。
そうなってくると、無駄な時間を無くしたり、役にたつ知識や技能、考え方を身につけることのできる教育が良い。
何でもかんでも無駄な時間って言うつもりはないけれど、少なくともわかっているのにずっと待っている時間とか、わからないのにずっと説明を聞いている時間とかは、明らかに無駄な時間。
「雀の学校」みたいな教育はまだあって、そういう教育ははやくなくしていけないといけない。そういう教育を受けた人は、言われてからではないと動けなくない人になってしまって、主体的でなくなってしまう。
社会という広い視野でみてもダメになってしまう。

「雀の学校」みたいな教育は、多くの人がダメって思っているけれど、なぜなくなっていかないのか。
その原因の中に、"力のある先生の評価"と"ことばのイメージのみでの理解"があるのかなと思う。

挑戦しようとしている人に対して、どうしても批判したい人はいる。
とくにそれが学校の中であるとかなり厳しい。
なにかあれば、昔ながらのものさしで評価(往々にしてそれが攻撃的)をしてしまう人がいると、雀の学校から脱却できない。
「生徒をまとめる(行動を支配する)のは、教師である」みたい昔ながらの評価規準が早くなくなり、挑戦できる環境を作れれば良いんだけど。

また、そういう先生は、"主体的"とか"個別最適"とかって、何も教師がしないというイメージを持たれているのではないかなと思う。
もちろん、そんなことはなくて、人としてやっちゃいけないだろっていういじめや人権、犯罪に関わることは厳しく指導するし、ある言動によって他者がどのように思うかと考えさせる生徒指導レベルのことは指導する。
学習面では、こういう勉強方法の方が良いかもよっていうフィードバックとか。
むしろ、それ以上のことを指導する必要はあるのかな?
これ以上のレベルのことをやると、逆効果でしかないと思うけど。

冷静に考えて、自分の子どもが雀の学校みたいな教育を受けていたらどうかとか、自分が愛している人が、そのような教育を受けていた人と関わることで受ける影響とかを考えれば教育は変わっていくはず。

日本は良い意味でも悪い意味でも、「きっかけがあれば、全体が変わる国」だと思う。
微力だけれど、そのきっかけになっていきたいと思う。

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