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大きな愛を求めて⑧

~エレノア・ルーズベルトの生涯~ シリーズ➊~➑

➑イデオロギーの対立


▲国連で演説するエレノア・ルーズベルト


 委員会のメンバーは、政治的、文化的、宗教的背景を異にする18カ国の委員で構成されていました。そのため哲学的・宗教的・民族的な意見の食い違いは、あちこちにみられました。そんななかでエレノアは、宣言文の一言一句を詳細に検討していきました。彼女はどんなに意見の対立があろうと、全人類に共通の考え方が必ず見つかると、確信していたのです。
 しかし、たとえば、アメリカ独立宣言の序文にもとづいて書かれた、「すべての人( MEN )は、平等につくられ」というくだりでさえ、インド代表のハンサ・メフタは、これに女性( WOMEN )を書き入れるべきといい、別の国連メンバーは、MEN の代わりに PEOPLE(人々)を使うよう抗議したのです。結局、最終的にまとまったのは、「すべての人間」( HUMAN BEINGS )といういい方でした。この問題がかたづくと、こんどは、神の存在を信じない共産党代表が、「つくられた」という言葉に異議を唱えました。そのため「生まれながらに」と書きかえられたのです。
 その結果、「All  human  beings  are  born  free  and  equal  in  dignity  and  rights.(すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利において平等である) 」という文言になったのです。
 共産主義と資本主義のイデオロギーの対立は、人権を尊重するとは、どういうことかという考え方にもありました。宣言文起草の交渉で、もっとも大きな山場は、ソ連との交渉でした。もともと、「人権」というのは、ソビエトと西側諸国では、違うことを意味していました。西側諸国では、「人権」とは、国家からの自由が根幹にあり、政治的迫害、投獄、拷問などから人々が守られる権利と考えられていました。ですから当然、当時のソビエトの政治のやり方、つまり反体制の動きはつぶすというやり方などは、西側からすれば、まったくの人権無視だったわけです。
 逆にソビエト代表は、「人権」を、平等の観点から、雇用、医療、教育の権利や、飢餓からの自由と考えていたので、西側諸国の失業や住宅難あるいは貧困といったものは、その権利侵害にあたると考えていました。
 こうした両者の食い違いをふまえ、エレノアは、アメリカや西側諸国が反対するなかで、宣言のなかに、雇用、住居、医療の権利もふくめたのでした。
 しかし、ひとつだけ、双方がどうしても妥協できなかった点がありました。「個人の自由」という項目です。ここで、どうしてもソビエトの賛成が得られなかったのです。エレノアは必死に、個人の権利を守ろうとしましたが、ソビエトは、国家のほうが優先すると主張して、譲りませんでした。
 しかし彼女は、絶対に、諦めようとはしませんでした。「どんなに議論しても、ソビエト代表の言葉を変えることはできないでしょう。この世でもっとも腹立たしいことです。でも私は、たとえ一方通行で効果がなかろうと、そんなことは知らぬふりして議論を続けようと決心しました。私が忍耐しさえすれば、一年のうちには、ソビエト側も別の態度でのぞんでくるでしょうから。」
 かくして、人権をないがしろにし、国益を優先したことによって引き起こされた悲惨な大戦を経て、欠乏や抑圧のない状態で、それぞれの個性を十分に育むという人間の存在それ自体に由来する不可侵の権利が確認されるに至ったのです。
 これは、20世紀における人類のもっとも偉大な業績のひとつでした。たった2ページではありますが、専制と抑圧をなくす方法をのべながら、基本的な人間の権利を示しています。これは、「個人の権利と国の義務について書かれた、もっとも強力で、感動的で、完全なる文書」であり、私たちの時代の考えを、短くわかりやすく表しているのです。
 
 1948年、エレノア・ルーズベルトは、宣言採択の議決のまえに、パリの国連総会で演説を行いました。これはこの仕事の最後にして、最も高いハードルでしたが、これが歴史的な瞬間になることを、彼女は知っていました。
 「いま、私たちは国連、および人類にとって、大切な瞬間をむかえようとしています。 世界人権宣言は、世界中のすべての人間にとって、国際的な大憲章(マグナ・カルタ)となるでしょう。」
 エレノアは、ソビエトの言葉じりへの激しい反論で、採択が失敗してしまうのではないかと心配しましたが、ついに1948年12月10日、パリのシャイヨー宮で行われた総会において、この宣言採択の投票が行われました。ソ連は、相変わらず不服でしたが、反対投票はせず、東欧諸国とともに、棄権しました。ほかにも、宗教の自由を国民に認めることは危険だと判断したサウジアラビアとアパルトヘイト(人種隔離政策)を採用していた南アフリカが欠席しました。こうして世界人権宣言は、反対なしの、賛成48ヵ国、棄権8ヵ国、欠席2ヵ国で採択されたのです。
 もっとも権威のある国際会議の場で、このような美しい言葉で書かれた宣言が採択されたことで、出席した人々はみな、興奮していました。起草小委員会のメンバーを務めていたチリのエルナン・サンタクルスは、次のように記しています。「全世界から集まった男女の間に真の連帯感と友愛の雰囲気が漂っていました。それはいかなる国際舞台でも、私が二度と目にすることのなかった光景でした。」


 しかし、エレノアは、宣言が、理想を述べただけで、この地球上のすべての人に役立つ方法で実行されなければ、何の意味もないと考えていました。10年後の1958年に、エレノアはこう書いています。「普遍的な人権とは、どこからはじまるのでしょう。実は家の周囲など、小さな場所からなのです。あまりにも身近すぎて、世界地図などにはのっていません。その人の住む場所、ご近所の人、かよっている学校や大学、働いている工場や農場、会社などの個人個人の世界こそ、はじまりの場なのです。そんな場所で、男性、女性、子供が、差別なく、同じように正義、機会の均等、尊厳を求めるべきなのです。これらの権利が、そこで意味を持たないとしたら、それはどこにいっても無意味です。住んでいる場所の近くで、この権利を求める団結した市民の行動がなければ、それより大きな世界での改善を求めても徒労に終わるでしょう。」
 その後、国連のなかでも、人権への国際的な取り組みはすこしずつ進歩していったのです。人権問題を国際的な最重要課題と強く信じていたエレノア・ルーズベルトは、いわば、彼女自身の時代の半世紀先を見通していたわけです。彼女のおかげで、世界のおもだった国々で、この人権問題が政治課題として、もっとも優先されるようになったといっても過言ではありません。

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