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広島原爆投下は、なぜ、8時15分だったのか


▲世界遺産「広島原爆ドーム」


 今年の夏も、「ヒロシマの季節」がやって来ました。それは、すべての生命に対する核の脅威を終わらせるための、人間としての責任について、改めて考え、深く思いをめぐらす時です。
 広島に原爆が投下されたのは、8時15分でした。では、なぜ、8時15分だったのでしょうか。当時広島で救護活動にあたっていた、ある医師の証言によると、原爆が投下された「8時15分」には、重大な意味があるといいます。(長崎は、雲が多く目視で小倉に投下できなかったことから、やむ終えず次の予定地に投下したため、特に投下時刻に重大な意味はなかったと思われます。)
 太平洋に浮かぶマリアナ諸島の島々が、アメリカの手に落ちると、東京・横浜・名古屋・神戸・大阪など主な都市は、次々と空襲されました。しかし、広島は、なかなか空襲されません。大本営という日本の一大軍事拠点のあった広島が「空襲されないのは、おかしい」とこの医者が思い始めた頃、やはり広島にも空襲警報が轟きました。「ああ、やっぱり来たか。」彼はそう思いながら、傷ついた兵士を担架に乗せ、防空壕へと避難させました。しかし、米軍機は一発の爆弾どころか焼夷弾すら落として行かなかったのです。そして、そんなおかしな空襲が何回となくあったといいます。しかも、少しずつ少しずつ時間をずらして・・・。「もしかして、偵察か。」しかし、何のための偵察かは、わかりませんでした。

▲原爆投下直後の惨状を克明に描いた映画「ひろしま」(1953年、関川秀雄監督)の一場面(読売新聞オンライン2023.7.31より)


 8月6日の朝が来ました。人々はそれぞれの家から、広島の市街地へ向かって移動します。学校や工場に着いた人々は、外に出て、ラジオ体操を始めます。家庭婦人は窓や障子を開け、洗濯・掃除と余念がありません。
 午前8時15分、原爆投下。それは、広島市民が最も多く外に出ている時間帯であり、あの偵察はそのことを調べるための偵察だったのではないか。後にこの医者は、戦後いち早く広島を訪れ、原爆被害の調査・救護にあたったアメリカの動きを見て、これが恐怖の科学的実験であったと確信したのです。なぜなら彼らは、薬を与えるよりも先に、写真を撮り、血液や爛れた皮膚を採取し、聞き取り調査を行ったからです。人命最優先の医者の立場からすれば、まったく理解できない不思議な救護活動だったといいます。
 原爆投下によって、建物の外にいた人間と建物の中にいた人間とでは、被害の度合いがどう違うかなどという実験は、こんな機会でもなければ、できるものではないからです。この予測が事実なら、こんな恐ろしいことはありません。
 
 原爆に必要な100ポンド(45kg)のウラン235とプルトニウムは、約3年の歳月と延べ54万人の労働力と20億ドルの巨費を投じて製造されたのですから、絶対に失敗しないような綿密な計画にもとづいて投下されたことは、想像にかたくありません。
 投下後にトルーマンは次のような声明を発表しています。「われわれアメリカは、歴史上最大の科学の賭けに20億ドルを費やした。そして今、その賭けに勝ったのである。」
 このような勝利宣言を出してなお長崎に2発目が落とされたのは、なぜでしょうか。もう少し日本の反応を見てもよかったのではないでしょうか。しかしそんなことはお構いなしに3日後に投下したのは、広島型ウラニウム原爆と仕組みが異なる長崎型プルトニウム原爆も投下実験が必要だったからではないでしょうか。長崎型プルトニウム原爆と同型のパンプキン爆弾は、7月20日から8月14日までに何と50発も投下されています。しかも8月14日に7発投下された爆弾の投下想定目標都市は実はすべて京都だった(実際には愛知の自動車工場などに投下した)ことから、3発目の原爆は8月20日前後に京都に投下される可能性が高かったのです。それが、千年の都・京都が爆撃禁止の状態におかれ、終戦まで空襲を免れた最大の理由だったといえるでしょう。

 「核抑止力」、すなわち、アメリカの核兵器を背景に、日本への核攻撃を思いとどまらせようとする力は、わが国にとって引き続き必要だという考え方が、今も根強く存在します。暴力を用いることは「人間の臆病」の現れであり、権力の魔力に魅入られてしまった姿なのです。「核抑止力」を認めることは、核兵器を持とうとする意思そのものの廃絶という考え方に対立するものだといわざるを得ません。
 今や国家の安全を守るための安全保障の仕組みだけでは、国民一人一人を守ることはできず、「人間の安全保障」の実現が叫ばれています。広島や長崎を三度繰り返さないために、核保有国を含めて、すべての国が「核抑止論」の無力化を目指し、確実に前進してもらいたいものです。


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