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貧民教育に捧げたペスタロッチの生涯


▲ペスタロッチ


  ペスタロッチは、不朽の名著といわれる『隠者の夕暮』の冒頭で「玉座にあっても藁(わら)ぶき屋根の伏屋(ふせや)に住んでいても同じ人間、その本質における人間とは一体何であろうか。何故賢者たちはそれが何であるかをわれわれに言ってくれないのだろうか。何故高貴な人々は、人類が何であるかに気づかないのであろうか。」と問いかけました。
 地位や名誉や財産を剥ぎ取れば、みな同じ人間だというときの「人間」とはそもそもどういうものなのかと自ら問題提起し、人間は何を求め、どういうときに安らぎを感じるものなのかを明らかにし、「人間」にふさわしい教育を行うための教育学的観点から人間の本質に迫ろうとしました。
 しかし、彼の探究はそれに止まらず、教育は常に政治や法律との関わりの中で考察されており、教育者や政治家、法律家など、およそ人間のことを配慮すべき立場の人は、人間がどんな原則に従って反応し、あるいは発達するのか、その発達の目的は何であり、生涯の目的は何であるかを知らなければならないと述べています。彼の教育学が「経世済民の教育学」ともいわれる所以です。

 ペスタロッチは、偉大な教育者、社会改良家としてその名を知られていますが、その秀逸なる文才によって、民衆を教化するために優れた著書を数多く残しました。『リーンハルトとゲルトルート』第1部~第4部、『立法と嬰児殺し』、『探究』、『寓話』、フランスにおける革命とスイスとの関連を分析する政治的著作である『然りか否か』、シュテーフナー民衆運動に関する著作、そして十分の一税問題に関する著作など、政治的行動と影響力の行使に関する数々の試論を著しました。

 ペスタロッチの生きた時代は、1789年のフランス革命とフランス革命軍のスイスへの侵攻、1798年のスイス革命政府の成立とその崩壊、ナポレオンの侵攻とスイスの中立化、1812年ナポレオンの失脚と反ナポレオンの動き、1815年ウィーン会議でのスイスの永世中立化の承認といった激動の時代であり、その歴史の渦の中で、自分はどう生きるかを常に自らに問い続けなければならない時代だったのです。彼は、時代と運命のうねりの中で、「あれかこれか」と目の前の選択を続けた結果、その生涯を「貧民教育」に捧げることとなったのです。彼の墓碑銘には、「すべてを他者のためになし、おのれには何ものも求めず」と刻まれています。

 ペスタロッチは、イタリア系新教徒の家庭に育ち、彼の教育理念は、子どもの教育に必要なのは信仰と愛だという信念にもとづいていました。彼は次のように述べています。「信仰と愛こそは教育にとって始めであり、終わりであります」と。ペスタロッチのこの信仰は、母親のスザンナから受け継がれたものでした。彼女は夫亡きあと、貧困の中にあってもその細腕で子どもたちを育て、その心に信仰と愛を植えつけたのです。
 彼女は子どもたちに2つのことしか教えませんでした。1つは、天には父なる神がいて、どんな時にも人間を守ってくださるということ。2つ目は、すべての人間はこの神の子で互いに兄弟同士なのだから、互いに助け合わなくてはならない、ということでした。この信念は、ペスタロッチを生涯支え、その教育思想の土台となったのです。 

 1746年1月12日スイスのチューリッヒ湖畔の小さな借家に男の子が生まれました。父親のヨハン・バプテスト・ペスタロッチは、牧師であり、外科医の資格を持ってはいたものの、収入を得る機会は少なく、家族を抱えて生活が苦しかったので輸入ワインを売る仕事にも手を出していました。
 3人兄弟の次男として生まれたヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチは、食事はパンとじゃがいものスープしか食べられないような境遇でしたが、一家はいつも温かく、笑い声が絶えませんでした。
 しかし、ハインリッヒが5歳になったとき、突然悲劇が襲います。父親が重病にかかり、もう助かる見込みがないと医者に言われたのです。母のスザンナはこの時、ハインリッヒの下の妹を出産中で父の世話ができず、余裕のない生活ながら、若い家政婦を雇うしかありませんでした。
 父は自分の命があとわずかであることを悟ると、この家政婦バーバラ・シュミット(愛称バベリー)を枕元に呼んで言いました。「バベリーよ、どうかこの家を去らないでおくれ。私が死んだ後、妻はどんなに苦労をするだろうか。この3人の子どもも誰かの世話になり、そのためにどんなに悲しい目にあうか分からない。おまえの助けがなければ妻はとても子どもたちを教育していくことなどできないだろう。お願いだから私たちを助けておくれ!」
 すると、バベリーはベッドの横にひざまずき、彼の手を握って言いました。「だんな様、どうかご安心ください。このバベリーは100歳になっても奥様のもとを離れはいたしません。命ある限り、ご奉公させていただきます。」
臨終の床にあるヨハン・バプテスト・ペスタロッチは、安心したように微笑むと、間もなく息を引き取りました。彼女はその遺言を胸に留めて終生、無給でペスタロッチ家を支え続けました。

 夫の死後、年金生活に入った一家でしたが、母スザンナは、3人の子どもを抱えて内職をしながら、家計の切りもりをしていました。彼女は生活苦の中にあっても、一言も愚痴や不満を言ったことがなく、いつもほがらかで、強い信仰心を持っていました。
 彼女は、イタリア系新教徒で、万物の創造主である神は、すべてを愛し、そして、人間はその子どもであり、互いにいたわり合い、助け合って生きていかなくてはならないことを子どもたちに教えたのでした。ハインリッヒはこの母の影響を強く受けて育ちました。
 家政婦のバベリーもハインリッヒに強い影響を与えた人物の一人です。「いちばん偉い人というのはね、自分のためではなくて、神様と人のためにすべてをささげられる人なんですよ」。彼女は口ぐせのようにこう言っていました。
 事実、彼女はこのペスタロッチ家の残された家族のために生涯をささげたのです。後になってハインリッヒ・ペスタロッチが「自分のことを何ひとつせずに、他人のために尽くした人」と評される程、献身的な生き方と女性に対する尊敬の念を貫いたのは、幼少期に彼が間近に接したこのバベリーの影響によるものが大きかったと思われます。
 こうして母や家政婦に守られ、兄弟仲よく育ったハインリッヒは、外に出ることを嫌い、母や家政婦にくっついてばかりいました。そしてこの頃から、あまりにも内向的な性格から奇妙な癖が表れるようになってきます。
 陽気でひょうきんな真似をしては皆を笑わせていたのですが、何をしても失敗ばかりして、ひとつとしてまともなことができなかったのです。後に彼は手記の中にこう記しています。「すべて男らしい力、男らしい経験、男らしい考え方、男らしい修業をする手段が自分には欠けていた」と。

 やがて彼は小学校に入学しましたが、不器用で失敗ばかりしていたので、友達からばかにされるのでした。皆彼のことを「ばかでまぬけのハイリ」と呼んでいました。やっとできた唯一の友達も、次の日には仲間と一緒になってハインリッヒをからかうのでした。
 「どうしてぼくのことをいじめるの?」。ある時、ハインリッヒは友達の腕をつかんで尋ねました。すると、彼はこう答えたのです。「それは、おまえが父なし子だからさ。父さんがいないから、女の子みたいにめめしくて、何をやってもへまばかりするんだ。」
 彼は泣きながら家に帰り、母スザンナの腕の中に飛び込んで、訴えました。「お母さん、みんながぼくのことを父なし子だっていじめるんだ」。すると、母は彼を抱きしめて言うのでした。「あなたには天のお父様がいるでしょう。私たちはみんな神様の子なのだから、お友達に言っておあげなさい。ぼくには天のお父様がいるよって」ハインリッヒは、それを聞いて、大きな懐に抱かれたように安心するのでした。
 もう一人ハインリッヒに大いなる影響を及ぼした人物がいます。それは、ヘンクという村に住む祖父アンドレアスです。ハインリッヒはよく母の手に引かれてこの祖父の所を訪ね、数日間泊まるのが習慣になっていました。この祖父は教区の牧師をしており、貧しい農家の子どもたちのために作られた「農民学校」で子どもを教えていました。アンドレアスは、牧師として教区の貧しい人々の家や、病人を抱える家を戸別に訪問することにしていました。そして、訪問の際に、いつもハインリッヒを一緒につれて行きました。
 ハインリッヒは、チューリッヒの子どもたちとヘンク村のような貧しい辺境の地に暮らす農民の子どもたちとの境遇の違いに心を痛めました。チューリッヒのような都会に住む人々はフランス文化の影響を受け、華やかな生活を謳歌し、その子どもたちも、みんな学校に通い勉強していましたが、ヘンク村の子どもたちは貧しく、十分な学校教育を受けられないまま、働かざるをえなかったからです。ペスタロッチは、幼心に、いつかこの人たちを救いたいと願うようになりました。
 ある時、ハインリッヒは祖父に尋ねました。「おじいさんは学校で何を教えているの?」。「宗教だよ」。「宗教って何?」。「それはね、不幸な人たちや苦しんでいる人たちに神様の愛を伝えることなのだよ。」
 「ケルナーさん、こんにちは」。祖父は、軒が傾きかけた一軒の農家の戸を叩きました。すぐに顔色の悪い主婦が顔を出しました。「ヨゼフくんがしばらく学校に来ないものだから、心配なので来ました」。すると、主婦は片手でぼさぼさの髪をかき上げながら、吐き捨てるように言ったのです。「あの子なら、奉公に出したから、もういませんよ。うちじゃ、主人がけがをして働けなくなったもんでね。あたしの内職だけじゃとても一家の食いぶちを稼ぐことなんかできませんよ。あの子ももう7歳になるからね、働いてもらわなくちゃ」
 「どこへ行ったんです?」。「町の織物問屋ですよ。行きたくないって泣くのを無理につれてってもらったんです」。それから、彼女は椅子にかけてあった子どものボロ着を手に取り、胸に抱きしめ、こう言いました。 
 「ああ、牧師先生。どうして私ら農民はこんなに苦しまなくちゃならないんです?働いても、働いても、みんな税金に持っていかれちまう。自分たちが作った畑の作物を食べることもできないんですよ。」
 アンドレアスは、持ってきたパンとわずかの食物を彼女に渡した。その時ハインリッヒは、祖父の目に涙が光っているのを見ました。
 「ケルナーさん。私は無力で、あなた方一家のためにお祈りして差し上げることしかできません。でもね、これだけは信じなさるがいい。私たちの神様は、孤児とやもめの父であり、決してお見捨てにならない方だということを」。そして、この一家のために戸口で祈りをささげてから、この農家を後にしたのです。
 その次に足を向けたのは、喘息を患うハンナ・シュルツという人の家でした。戸口に近づくと咳き込む声が聞こえ、6歳くらいの男の子と4歳くらいの女の子が戸を開けました。「こんにちは。どんな具合です?」。アンドレアスは、ハインリッヒの手を引いて中に入ると、家の隅の粗末なベッドに、痩せて目の下にくまが出来た主婦が伏せっていました。
 「まあ、先生。こんな所まで・・・」。起き上がろうとするのをアンドレアスは手で制し、持ってきたパンと少しばかりの食料、それから懐から小さな水薬の瓶を出して枕元に置きまた。「これは咳止めに効く薬でしてな。飲んでみてください。またそのうちに来てみましょう」。そして、その場にひざまずき、祈りをささげてからこの家を後にしたのですが、だいぶ歩いてからも、まだ咳が聞こえていました。「隣の教区に医者がいるから、あの人を療養させてもらえないか聞いてみようかな」。アンドレアスは、独り言のように言いました。
 「おじいさん」。ハインリッヒは、祖父の手を強く握りしめながら、「おじいさんはいいことばっかりするね。この村の人はきっと感謝しているよ」といいました。
 すると、アンドレアスは咳払いをしながら首を振り、「いや、私はもう年をとった。これ以上のことをすることはできない」。それから、孫の肩に両手を置いて、「だが、おまえは将来力をつけて、こういう貧しく惨めな人たちの助けとなってあげなさい。きっとおまえならできるだろう。」
その時、ハインリッヒには、何か胸の奥からじんとした感動が込み上げたのでした。「分かった。約束するよ、おじいさん」。彼は急に祖父が大きく偉大な存在に思われてきたので、まぶしそうにその姿を見上げながら答えたのでした。
 祖父アンドレアスは、ただ教会の講壇から説教をするだけの牧師ではなく、その日々はひたすら貧しい人々への奉仕に捧げられ、病人のいる家庭や、貧困に打ちひしがれた人々のために祈り、なぐさめ、時には自分の蓄えにしている食物を与えてしまう行動の人だったのです。祖父と一緒にこうした人々の所を回り歩いたペスタロッチは「泣く者と共に泣く心」、即ち「同苦する心」を無言のうちに祖父から受け継いだのです。ペスタロッチが教育者である以前に社会改良家といわれるような実践家になったのは、こうした祖父の影響もあったのです。こうした環境が「偉大な教育者」誕生のゆりかごとなったのです。

 こうして形成されたペスタロッチの教育思想のバックボーンは、時代を先取りした次の事例に明確に顕れています。すなわち、ペスタロッチが30代の前半、当時スイスで重大な社会問題の一つとして、未婚の母が自分で産んだばかりの子どもを殺すという痛ましい事件が頻発していました。そのため「子ども殺しを止めさせるための最良で実行可能な手段は何か」と題する懸賞論文が募集されるという有様でした。ペスタロッチも偶然目にしたこの論文に応募することとなり、彼はチューリッヒとその周辺から多くの資料を集め、徹底的な研究を始めました。その結果、ほとんどの事例が、少女たちの絶望的な状況下において、やむなく自分の子を殺さざるをえなかったという 被害者としての実態が浮かび上がってきたのです。
 彼は、『立法と嬰児殺し』と題した論文の中で、可愛いわが子を殺してしまうのは、母親がひどい人間だからではなく、わが子を育てられないことへの絶望からだと考えました。少女をだまして妊娠させ、自分では一切の責任を負おうとしない世の男たち、とりわけ上層階層の男たちは、まったく罰せられることなく放免されている。他方、純粋な愛をもって男を信じて裏切られた少女たちは、一方的に罰を受けているという矛盾、しかもそれが片手落ちの刑法の故であることを、ペスタロッチは鋭く突くのでした。
 この刑法の誤りとともに、ペスタロッチは「偽善的な国の風習のもつ硬直した道義感」や「表面的・外面的な礼儀正しさ」、未婚の女性の妊娠を口やかましく非難する僧侶たちに代表されるような、大げさでわざとらしい「国民的風潮」、そしてまた、家族や親戚の者までが世間をはばかって不幸な少女を援助することを拒絶することが、彼女たちを追いつめ、絶望させ、このおそるべき犯罪へと追いやる元凶であり、社会的非難を受けることへの倫理的嫌悪感が犯罪的行為への衝動を導きだすのだと主張します。
 だから大切なことは、刑罰を重くするのではなく、母親がひとりでもわが子を育てられるように乳児院を設置したり、罪を犯した母親がわが身を反省し、服役後は社会復帰できるように自立を支援することだと主張しました。この考え方は「教育刑」という考え方であり、今日にも生きています。国家がこのような不幸な犯罪を防止するために取るべき手段の二つの柱は、愛護的な立法と真の教育による啓蒙であると主張しているのです。 

 ハインリッヒ・ペスタロッチは、小学校で初等教育を受けた後、ラテン語学校スコラ・カロリーナを経て、1761年から3年間コレギウム・フマニタスという大学の哲学クラスに通いました。その頃一家はミュンスター通り23番地の「赤格子の家」に住居を移していました。
 そして、彼は1763年にコレギウム・カロリヌム(チューリッヒ大学の前身)に入学しますが、彼の成績にはムラがあって芳しくありませんでした。学習内容が高度になると、彼の性格の中でも極端な「不注意」がわざわいして成績が振るわず、一生涯つきまとって彼を苦しめたのです。
 彼は後に回想録の中で、「私は最も優れた学生の一人でありながら、どんな劣った学生でさえやらないような過ちを、考えられない思慮不足からやってしまうのでした」と述べており、ある教授は、彼のこの両面性をわざと不真面目な態度をとっていると誤解したほどです。
 初めは、牧師になって貧しい人々を救いたいと神学を志しますが、もっと直接的に人々を救う弁護士になりたいと法学を志します。
 しかし、彼はこの大学で3人の優れた教授と出会いました。ヨハン・ヤーコブ・ボートマー、ヨハン・ヤーコブ・ブライティンガー、そしてヨハン・ヤーコブ・シュタインブリェッヒェルです。中でも彼はボートマー教授の授業に夢中になり、やがて熱狂的に引かれるようになりました。
 ペスタロッチは、ボートマー教授によって、愛国心をかき立てられたのみならず、社会を改革し、民衆に幸せをもたらすために自分のすべてを捧げようという高邁な理想を胸に燃やしていきました。ボートマー教授は、ただ机の上の学問ではなく、その目を広く社会に向け、その知識を民衆のために役立てるべきことを学生に教えたのです。
 それから間もなく、ペスタロッチはコレギウム・カロリヌムを中退してしまいます。彼は貧しい人々を救済するために直接奉仕をしたいという思いでじっとしていられなくなったのです。
 彼が崇拝するボートマー教授は、「ゲルヴェ・ヘルヴェチア協会」という社会改革を目的とする政治結社を創立したばかりで、1764年5月9日ペスタロッチは活動の足がかりを求めてここに入会しました。
 ヘルヴェチア協会はリマト河に面して立つ市庁舎のやや下手にあるゲルヴェ館(皮なめし業者の組合)を本拠地としており、会員はすべてボートマー教授に心酔する学生たちで成り立っていました。ペスタロッチは、ここで当時話題だったジャン・ジャック・ルソーの思想に出会いました。ボートマー教授は、何よりもルソーの著書『エミール』と『社会契約論』についての解説を熱く語りました。ルソーの「自然に帰れ」という主張は青年ペスタロッチの魂をゆさぶらずにはいませんでした。ルソーは、「自然人」(ほんとうの私)と「社会人」(社会的な私)が乖離してしまうと人間は幸せになれず、それを如何に統合して生きるかについて考えなければならないと主張しました。そして、それから間もなく、教授を中心として「社会研究会」が週1回開かれ、ここで社会の矛盾と不平等をいかに解決すべきか、また社会の片隅で泣く生活困窮者たちをいかに救済すべきかなどが熱心に討議されたのです。この研究会でペスタロッチは、ヨハン・コンラート・ラーファーター、ヨハン・ハインリッヒ・フェースリ、そしてヨハン・ガスパール・ブルンチュリなど生涯の友人を得ます。
 ペスタロッチは、一同の熱意に触発されてペンを取り、「アギス」という小論文を書いて研究会で発表しました。これは大いに歓迎され、自信を得た彼は1766年にヘルヴェチア協会の週刊誌「警醒者」に「希望」を投稿し、掲載されました。
 実はこの時、すでにペスタロッチの胸にはある決意が生まれていたのです。それは、ヘンク村で目にしたような悲惨な農民たちの生活を向上させるためにもっと勉学を積み、いつの日か彼らに奉仕したいという強い思いでした。
 しかしながら翌年1767年。ペスタロッチはある事件に巻き込まれ、その政治活動の機会を失うことになります。少し前に、友人のラーファーターとフュースリは「被圧迫者の擁護および不正の処罰のための連盟」を立ち上げ、政府から目をつけられていました。彼らは、代官グレーベルに対する不正を告発し、調査するように政府に迫ったのです。しかし、2人は逆に厳しい懲戒処分に処せられてしまいます。
 そして1766年12月、同じく協会の友人H・ミュラーの「農民会話事件」が起きます。これは、チューリッヒの軍隊がジュネーブに向かって侵攻を企てた際に、農民の多くが反対し、ある農民が「もしそんなことになるなら、ジュネーブに向かって一歩を踏み出す前にこの体をずたずたに引き裂かれたほうがましだ。おれは行かないぞ」と話していたのをミュラーが文章にまとめて研究会で発表しようとしたのです。
 しかし、それ以前になぜかこの文章が公の目にさらされることになり、ミュラーは逮捕されました。ペスタロッチも仲間と見なされて捕らえられ、1767年1月28日から3月1日まで拘留されました。そして、裁判でミュラーは聖職者の地位をはく奪された上、終身国外追放の処分を受けたのです。この事件は、ペスタロッチの生涯に暗い影を落とすものとなりました。

 ペスタロッチは、この事件によって、政治家になることを断念せざるをえなくなり、チューリッヒから25㎞ほど離れたアールガウのビルという小さな村に約20モルゲンの休閑地となっていた牧草地と農地を借金して購入し、そこに自分のノイホーフ(新しい農場)を建設し、自ら農民となって農業経営を学び、人々を救う道を選んだのです。このころスイスでは、「重農主義」が流行っており、ペスタロッチも農業技術の向上こそ貧民救済の方法であると確信していました。
 しかし、1770年8月12日のことでした。ペスタロッチに1万5千グルデンの借用貸付をした銀行家ハウプトマン・シュルテスがやってきて、ペスタロッチの事業は将来発展が見込まれず不安定だからと共同経営の打ち切りを宣言し、貸付金の返済を迫ったのです。
 寝耳に水の思いで、彼は事業のために蓄えた金と、アンナの実家の援助により貸付金を返済しましたが、途端に貧困が家に押し寄せ、家計を脅かしました。このような時に、長男のハンス・ヤーコプが誕生します。この子は生まれつき虚弱体質で、いつもむずかってばかりいて手間のかかる子でした。
友人、知人の多くはペスタロッチの事業の失敗を知ると遠ざかり、夫妻は孤立無援のまま取り残されました。そんな中にあっても、ペスタロッチは自分の農園に出かけ、飼料用草木の栽培を続けたのです。
 しかし、これで生活していくためには計画していた以上の土地を買い取らなくてはなりません。その上、彼は自分たちの住居を自分で設計し、かなりぜいたくな素材を使って建てようとしていたために、無理な出費を重ね、財政的に破綻し、結局建物は完成せずに大きな失敗を被ったのでした。
しかも、不運なことに、この年から始まった世界的な凶作が、2年間も続き、ヨーロッパ中に飢饉が広がりました。いくら農地を耕しても草木は育たず、ペスタロッチはついに農業を諦めざるをえなかったのです。
 そこで彼はこの失敗を、今度は木綿工業に置き換えることにします。彼はノイホーフの中に機械を運び入れ、親戚や友人、知人に呼びかけて木綿の梱(こうり)を持ってきてもらい、これを紡ぎ始めました。そしてアンナは、ヤーコプを背負いながら機織り機に向かって慣れない手つきで機を織り始めたのです。
 しかし、この事業も長くは続かず、過重な労力と手間がかかりすぎたために、挫折しました。ペスタロッチ一家は新婚家庭であったミュリゲンの農家を出て、ノイホーフに住居を移しました。

 そんなある日のことです。彼が農地を耕すために出かける途中、丘の小道で行き倒れになった少年を発見しました。よれよれの服を着た、骨と皮ばかりになった子で、顔や手足には打ち身や傷の跡がついています。
 ペスタロッチが弁当のパンとチーズ、そして水筒の水を与えると、少年は野獣のように飛びついてきてガツガツと飲み食いしました。それから、両手で口を拭いて「うまい」としゃがれ声で言いました。どうやら両親を亡くして路頭に迷っているのを自治体に保護され、貧しい農家に奉公に出されたようでした。
 農家では幾らかのお金を自治体からもらって里子を引き受けたのですが、十分な労働力が得られないためにろくに食事も与えずにこき使い、揚げ句の果てには物乞いをさせ、金をもらってこないと殴る蹴るの暴力をふるうので、ついに奉公先を逃げ出してきたのだというのです。「かわいそうに。農村の貧困がこういう子どもにも影響しているんだ」。ペスタロッチはその少年をノイホーフの家につれて帰り、体を洗い、髪をとかしてから、パンとスープをお腹いっぱい食べさせました。
 「もう心配いらないよ。きみは今日からこの家の家族だからね」。そう言うと、いきなり子どもはペスタロッチに飛びつき、泣きじゃくりました。「おじさん、ぼくをここから追い出さないで。つれ戻されたら、ひどい目にあわされるの!」
 「まあ、かわいそうに」。アンナは、ヤーコプを背負ったままで、その子を引き寄せ、その髪をなでてやりました。「私たちをお父さん、お母さんと思って安心してこの家で暮らしなさいね。」
 それから幾日もたたないうちに、ペーターと呼ばれるこの少年の頬には赤みがさし、その目に柔らかな光が宿るようになったのです。じゃがいもとかぶのスープとパンといったペスタロッチ家の粗食ではあったにもかかわらず、目に見えて少年は元気になってきたのです。
 ある日、ペーターは、「お父さん、ぼくにも何か手伝わせて」と言ってペスタロッチを驚かせました。そこで、木綿を紡いだり、機を織ったりすることを教えると、彼はすぐに覚えてできるようになりました。その時、ペスタロッチの心にある考えが浮かんだのです。「そうだ。ペーターのように悲惨な境遇の子どもたちに仕事を教えたら、彼らを物乞いから守ってやれるではないか。将来彼らの生活を支える助けにもなる。」
 ペスタロッチは翌日、州の自治体の長官を訪ね、里子にするような子どもがいたら引き取りたいと願い出ました。すぐに2人の男の子と1人の女の子がノイホーフの家に引き取られましたが、彼らはいずれも悲惨な境遇の子どもたちでした。ペスタロッチは、一人の惨めな境遇の子どもと出会い、その少年が放った一言で、自分の天職を知ることになります。彼はこの時から「見捨てられた子どもを救済し、まともな人生が歩めるよう養育する」という児童福祉の仕事を自らの使命だと強く認識したのです。まさに、彼が社会改良家から教育者を志した瞬間でした。

▲子どもたちに寄り添うペスタロッチ

 しかし、それも簡単ではありませんでした。1773年には、10人近い子どもがノイホーフに収容されましたが、これだけの子どもを養うのに、ペスタロッチ夫妻は自分たちも満足にパンを口にできない日もありました。後にペスタロッチは友人に手紙で書いています。「私は、幾年もの間物乞いの子どもの中で生活しました。私は貧苦の中にあって、私のパンを彼らに分け与え、自分も物乞いのような生活をしたのです。」
 こうした中で、ペスタロッチは驚くべきことを発見します。子どもたちは、毎日じゃがいもやかぶのスープと固いパンという粗食の中にあっても、少しも健康を害すことがないばかりか、むしろ新しい環境の中で極めて元気で快活になっていったのです。これは子どもが小さなうちから自分は守られている、大切にされているという安心感を得られ、共に生きてゆける人を見つけたなら、いかなる貧困も乗り越えられると確信したのです。この時、ペスタロッチは初めて「子どもの教育」という天職を神から授かったのでした。
 ペスタロッチは子どもたちに将来自活するための労働を基本とする「職業教育」だけでなく、その心の拠り所としての信仰を植えつけるため「宗教教育」をほどこすためのカリキュラムも作り始めました。天には父なる神がおられること。そして、その子どもである人間は互いに兄弟なのだから、互いにいたわり合わなくてはならないという極めて単純な信仰心を、彼は幼い子どもたちの心に植えつけていったのです。
 さらに、こうした課程と並んで、毎日彼らに「読み・書き・計算」の勉強をさせました。こうしたことから、1774年末には、このノイホーフはいつの間にか「貧しい子どもたちに養育と労働を与える施設」として「ノイホーフの貧民学校」と呼ばれるようになりました。

 しかしながら、この「貧民学校」が評判になり、ペスタロッチの名が知られるようになるにつれ、またしても貧困が家計を脅かすことになります。ある日のこと、ペスタロッチは自分の家族のみならず、子どもたちに食べさせる一切れのパンもなくなってしまったことに気付いたのです。妻アンナも栄養失調のために母乳が出なくなり、ヤーコブは火がついたように泣き続けました。はじめは我慢していた子どもたちも、「おなかがすいた」とぐずり始めたのです。
 それでも、ペスタロッチは、子どもたちをなだめつつ、話を始めました。「昔、イエス様がまだ地上にいらっしゃったとき、やっぱりみんな生活に困っていてね。明日どうやって食べていったらいいだろうと悩んでいました。すると、イエス様はね、こう言われたんです。『空の鳥を見なさい。種をまくことも、刈ることも、蔵に入れることもできません。それでも天のお父様は彼らを養ってくださるのです』と。だから、天のお父様である神様にお祈りして助けを待つことにしましょう。」そして、ペスタロッチは大きな声で祈り、子どもたちはたどたどしい言葉でそれについて祈りを唱えるのでした。
 すると、その時。表に馬車が止まる音がしたかと思うと、一人の若い男が戸を叩きました。地方長官のニコラス・エマヌエル・チャルナーでした。何かとがめられるのかと、ペスタロッチは身構えましたが、そうではありませんでした。「ペスタロッチさん、あなたが貧しい家の子どもや、保護者のいない子どものために苦労しておられることを人づてに聞いてまいりました。何か私たちにお助けできることはありますか?」とチャルナー長官が言いました。
 「それでは、長官。もし自治体が毎年何グルデンかの資金を貸付金として前払いしてくださったら、子どもたちに読み書きを教え、園芸、果樹栽培の基礎を身につけさせ、子どもたちの感情豊かな発達と教育のために、可能な限りのあらゆることをしてやれるのですが。どうか考慮願えないでしょうか?」
 ペスタロッチがこう言うと、チャルナー長官はしばらく考えてから答えました。「助成金が下りるかどうかは審査の後でないと分かりません。でも、私は今一つの提案を持ってきました。ペスタロッチさん、あなた筆が立つでしょう? 私の友人であるバーゼルのイーザク・イーゼリンにあなたを紹介します。彼は『エフェメリデン』という雑誌の編集者です。何か書いて彼に送ってごらんなさい。きっと道が開けますよ。」
 それから、彼は2人の従者に手伝わせてパンや食料品の入った大きな袋を3つ、施設に運び込ませ、彼の手に何がしかのお金の入った包みを渡して言いました。「何か困ったことがあったら、言ってください」。チャルナーはそう言い残すと、馬車に乗って去って行きました。


 チャルナーの勧めにより、その後ペスタロッチは、貧困と貧民教育の問題を当時の社会情況という背景に照らして理論的に考え抜いた論文をイーザク・イーゼリンに送りました。この論文は「エフェメリデン」に掲載され、大きな反響を呼んだのです。
 彼は、貧民に対し、幸福というものは彼らが自分の境遇とどの程度折り合えるかによるのであるから、その悲惨な境遇に耐え得るものとなるために努力し、貧困の中にあっても精神的に自立しなければならないと励ましました。そして同時に、彼らの精神的、経済的地位の改善を助けるために、国や自治体も努力すべきであると述べたのです。
 1776年7月には、ノイホーフの施設は22名の子どもを収容していました。さらに、1778年2月には、4歳の幼児から19歳の青年まで37名が収容され、その施設には、1人の織工、2人の紡績工、紡績の傍ら子どもたちに読み書きの初歩を教える男1人、農業にも携わるため小作人夫婦も雇っていました。
 こうしてノイホーフの貧民学校は発展し、ペスタロッチの心に描いた理想の教育に近づきつつあるように思えたのですが、思わぬほころびが原因で経営困難に陥ってしまいます。原因の一つは、援助者たちの経済的事情から献金が途絶えがちになったこと。また、1777年には悪天候が続き、収穫のほとんどがだめになってしまったことなどが挙げられます。
 それに加えて、施設の発展に大きな弊害となったのは、子どもを施設に預ける両親や身内の者たちの態度でした。彼らは、子どもが一日中働かなくてはならない上に、粗末な食事しか与えられないことに不満をもらし、ついには連日施設に押しかけてきては文句を言うようになったのです。
 そのうち、子どもたちも親のそうした態度を見るうちに、ペスタロッチをばかにし、反抗的になり、施設で衣服を与えられ、教育を受けた後に逃亡してしまいました。中には金を盗んで行ってしまう子もいたのです。
 1779年になると、事態はさらに悪化します。彼がチャルナー長官を通して申請した助成金が許可されず、生活苦のために別に借金をしたことから、再びペスタロッチ夫妻は貧困のどん底に陥ったのです。
 1779年8月、ペスタロッチは自分の地所を処分することにし、20モルゲンの土地を兄のバプテスト・ペスタロッチに委託しました。ところが、同じく生活苦の中にある兄はその金を着服してしまい、弟に許しを乞う手紙を出した後、消息を絶ってしまったのです。
 この時、妻アンナは心労から健康を害して床に就いていました。ペスタロッチは彼女の実家の財産や援助者からの寄付金をすべて使い尽くしてしまい、世間の信用をことごとく失っていったのです。そして1880年、「ノイホーフの貧民学校」はついに閉校となってしまいました。


 ペスタロッチがこの上なく陰鬱で絶望的であった時期、やることなすことすべてが失敗だったにもかかわらず、一人の援助者がノイホーフを訪れます。エリザベート・ネーフという女性で、彼女はボランティアとして家政婦を志願してきたのです。昔、ペスタロッチの母を支えたあのバベリーによく似た彼女は、わずかの間に家政を立て直し、以後ペスタロッチ夫妻をずっと支え続けたのでした。
 もう一人、ノイホーフのこの失意の男を信頼し、愛と敬意を尽くしてくれたのがバーゼルの書記官イーザク・イーゼリンでした。イーゼリンは、ルソー思想をあらゆる生活領域において実践的に適用しようと試みる改革運動の一つであった「汎愛主義者」(人類の友)の重要な代表的人物の一人でした。イーザク・イーゼリンを称える感動的な追悼文の中で、ペスタロッチは読者に、イーゼリンがかつて彼を絶望から救い出し、自殺さえしかねなかった自分を救ってくれた、と明かしています。
 イーゼリンの勧めでペスタロッチは「エフェメリデン」誌に次々と論文を寄稿します。彼は社会改革のための論文を書き、社会的弱者を擁護しようと考えました。これはその中の一文です。
 「困窮の底にいる下層の人々を引き上げることこそ文明化された人類の義務である。・・・養老院、孤児院、刑務所などは、文明によって必要なものを享受することを奪われ、国家から見捨てられた末、犯罪者となってしまった人々のために設けられているのだ・・・」
 それからしばらくして、ペスタロッチは先述した不朽の名著『隠者の夕暮』を出版します。彼はこの中で、すべての人間の素質には、高貴な人間性が備わっており、その内的要素を発展させることが人間教育の主たるものであり、そのためには環境が不可欠な条件であると述べています。われわれ人間は人士の悦楽と浄福、つまり喜びと安らぎ究極的な目的として、人間の本質、そして真理を探究していくべきであり、その道は「自然の道」であり、自然こそが教師なのだと考えました。
 そして、ペスタロッチを一躍有名にしたのは1781年4月に刊行され、当時のベストセラーになった小説『リーンハルトとゲルトルート』です。これは旧友ヨハン・ハインリッヒ・フュースリと再会した彼がこの友人の勧めで発表したもので、児童教育の教科書ともいわれるようになるのです。形式は恋愛小説ですが、この本のなかで子どもの教育にとって大切なことがらが、家庭教育、学校教育に関して書かれています。この書には、環境を良くし、愛と善意とで温かく教育を行えば、人間は必ず良くなるという信念が見られる一方、第三部では、退役軍人のグリューフィー元少尉の言葉を通して、次のように述べています。「人間は・・・・・・自己自身を野生のまま成長するに任せておくと、本来怠惰で無知で不注意、無分別で軽はずみ、だまされ易く臆病で、無限に強欲なものだ。そして危険や自己の弱点、自己の強欲と衝突する障害などを通して、いよいよひねくれた、ずるい、腹黒い、疑い深くて凶暴で向こう見ずな、執念深い、そして残忍なものになる。――これが人間が自分自身を野生のままに成長させるときに、陥らざるをえない姿なのです。こういう人間は食べるのと同じ気軽さで盗みをし、眠るのと同じような調子で人を殺すのです。」
 このグリューフィーの立場こそ、ペスタロッチの立場だったのです。彼は『隠者の夕暮』当時の、人間自然本性に対する楽観的な見解を、またルソーが『エミール』で展開したような人間の善性についての信頼を失っているようです。実にさまざまなこどもや親たちと接し、その行動様式や思考様式を見る中で、ペスタロッチの目に捉えられるようになった人間の姿なのです。こういう本質的な面をもつ人間だからこそ、動物的な次元に留まらず、人間らしい人間になるために教育は必要不可欠なのです。人間の本質に対するこの覚めた洞察は、やがて『探究』での徹底的な人間探究として、実を結ぶことになるのです。

 1789年フランス革命が起きるとその影響はスイスにもおよび、1798年に中央集権をめざすヘルヴェティア共和国がフランス総裁政府の後押しで成立しました。ペスタロッチは、この革命政府に教育面での奉仕を申し出ました。新政府は学校の整備を課題として掲げていたからです。ペスタロッチが最初に派遣されたのは、条件のあまりよくないシュタンツという村でした。というのも、革命政府に最後まで抵抗したため、フランス軍によって焼き討ちされた村だったからです。親が殺されて孤児になってしまった子ども達を修養する施設が必要だったのです。その修養先とされたのが、ウルスラ修道会でした。
 シュタンツのウルスラ修道会の新館、つまり孤児院には、部屋も、ベッドも、台所も何もありませんでしたが、孤児や浮浪児は次々とやってきました。彼らは、乞食をしたり、泥棒をしたりして、何とか生きてきた子ども達でした。
 ペスタロッチは、『シュタンツ便り』と呼ばれる手紙の中で、次のように述べています。「授業に関して、また子どもたちの指導に関して私の見地を擁護しようとする人は、誰もあらわれませんでした。・・・私となんらかのつながりのあった人々は、たいてい学識と教養が高くなればなるほど、ますます私を理解しなくなり、私がそこに立ち返ろうとした出発点をしっかりとらえることもできませんでした。・・・だが彼らが最も強く抵抗したのは、いかなる人為的な方法にもよらず、ただ子どもたちを取り囲む自然や毎日の要求や彼ら自身を動機づける活動を陶冶手段として利用するという私の考えやそれを実行する可能性に対してでありました。・・・そんなわけで、教養のある教師たちを、私はたよりにすることができませんでした。粗野で教養のない人たちは、なおさら役に立ちませんでした。・・・人間の教育に必要な全精神を包含することのない学校の授業、また家庭的関係の全生活に基礎を置かない学校の授業は、私の見るところでは、わが人類を人為的に萎縮させる方法へと導く以外にはないと思います。あらゆるよき人間教育は、居間における母親のまなざしが、毎日毎時その子どもの精神状態のあらゆる変化を確実に自分の眼で、自分のくちびると自分の額で読みとることを求めます。それは本質的に、教育者の力が純粋で、家庭的関係の全範囲にわたってあまねく活気づける父親の力であることを求めます。・・・人間は好んで善を欲します。 子どももまた、好んで善に耳を傾けます。だが、教師よ、それはあなたのために欲するのでもなければ、教育者よ、あなたのために欲するのでもありません。子どもは自分自身のためにそれを欲するのです。あなたが子どもを善へと導かねばなりませんが、それは決してあなたの気まぐれや激情から出た思いつきであってはなりません。それは事柄の本質上それ自体善であり、子どもの眼に善として映らねばなりません。 子どもが善を欲するまえに、子どもはあなたの意志が必要であることを、自分のまわりの状況や自分の必要から感じとっていなければならないのです。」
 その後、修道院に、政府から派遣された職人がやってきて、台所と寝室の仕切りとドアを作りました。それから、ベッドを設置し、テーブルとイスを運び込みました。また地方長官ゲスナーの指示で生活に必要な台所用品、食器、そして毛布や布団、孤児たちに着せる下着と新しい服なども届けられたのです。
 ペスタロッチは、ようやく台所でじゃがいもやかぶのスープを作ることができ、お湯を沸かして子どもたちの体を洗い、髪をとかしてやることができたのでした。新しい服に着替えさせてもらった子どもたちは大喜びで広い建物を駆け回ったり、はしゃいで大声を上げたりした。彼らはペスタロッチに飛びついて言った。「お父さん、ありがとう!」
 ペスタロッチは、子どもたちに何も教えようとしませんでした。ただ一日中大きな部屋の真ん中にいて、彼らを抱いたり膝に乗せたりして、一緒に歌ったり、祈ったり、遊び、語り合うだけでした。彼は後にこう書いています。
 「・・・彼らはただ私のそばにいる。私もまた、片時も彼らを離れない。・・・夜は彼らと共に眠り、最後に寝て初めに起きるべきベッドの中にあっても、彼らが眠るまで彼らと共に祈り彼らに教えた・・・」
 日がたつにつれて、まるで氷が太陽の光に溶けるように、子どもたちは閉ざされていた心を開き、のびのびと行動するようになっていったのです。彼らは、何をやってもペスタロッチが叱らないので、頭で突いたり、殴りかかったりしました。蹴飛ばす子どももいました。しかし、ペスタロッチはそんなことは少しも気にかけないといった様子で、彼らを引き寄せ、抱きしめるのでした。
 何カ月かたったとき、少しずつペスタロッチは子どもたちに読み、書き、計算を教えはじめました。彼は今まで誰も考えたことのないような方法を用いたのです。つまり、大きな板に絵文字を書いて、視覚を通して子どもたちが文字や計算を学べるようにしました。それから、何よりも大切な「魂の教育」を始め、祈ることと例話を通してやさしく聖書を教えました。
 子どもたちの進歩にはめざましいものがありました。政府から調査員が施設に来てそのありさまを見、大変に感動して人々に語ったことから、この孤児院は急に有名になり、寄付金も増えてきました。
 翌年にはここに引き取られる子どもは孤児だけでなく、両親そろっていても貧しくて育てられない家庭の子どもも入ってきて、世間の評価もかなり高いものになっていったのです。もはやこの施設は孤児院というよりも学校として認められるようになっていったのです。
 1799年5月24日。ペスタロッチは80人の孤児をつれてルツェルンに行き、行政長官ルグランを訪ねました。ルグランは大喜びで一行を歓迎し、子どもたち一人一人に銀貨を1枚ずつ与えました。ペスタロッチは誇らしく、また喜びでいっぱいでした。しかしながら、彼らが馬車で送られて帰ってくると、孤児院の前には怒りと不満に顔を引きつらせた人々が待ち受けていました。それは、子どもをこの施設に預けた両親や身内の人々でした。
「見せ物じゃないんだよ」。1人が噛みつくように言いました。「こんなピカピカの衣装を子どもに着せてあちこち引き回してよう」。そして、無理やり子どもの手をつかむと帰って行ったのです。
 彼らは隣り近所の人々に、ペスタロッチは子どもを利用して役人におべっかを使っていると悪口を告げて回ったのです。この時から子どもを預ける人が減り、寄付金も申し合わせたように途絶えました。しかし、これは悲しみの始まりに過ぎませんでした。

 1799年6月。オーストリア軍とプロイセン軍がフランス軍を駆逐すべく、スイスに侵攻し、スイスが戦場になると、フランス軍はこの孤児院を軍の司令部に充てるために立ち退きを命じたのです。ペスタロッチは何度も州長官のもとを訪ねて懇願しましたがだめでした。6月8日。彼は80人中20人の子どもを牧師ブジンガーに委ね、残りの60人を門外に送り出さなくてはなりませんでした。
 最後の朝。ペスタロッチは念入りに子どもたちの髪をとかしてやり、晴れ着を2枚ずつとわずかばかりのお金を持たせて、一人一人を抱きしめて祝福した後、どこへともなく消えてゆく彼らの後ろ姿を見送りました。
 一人になってから、彼も身支度を始めました。少し前から肺を患っていたために医者からグルニーゲルの保養地での療養を勧められていたのです。すると突然、彼は膝をつき、両手で顔を覆って号泣しました。・・・とその時、彼の口から血が溢れ出してきて服に飛び散り、上着を汚しました。彼は片手で口を覆い、そのまま血を吐きながら停車場に向かってよろめくように歩き始めたのです。
 ゲルニーゲルで静養を余儀なくされたペスタロッチは、ようやく小康を得たので、シュタンツの孤児院の復興を政府に願い出ました。しかし、孤児院の仕事の結果が疑わしいという報告がなされたので、彼の願いは叶わず、政府は彼をシュタンツに召還する決定を出せませんでした。
 「私は子どもたちに教えたい。小さなうちに、その柔らかな心に将来自立できるような職業の知識と、神を尊び、人を愛する宗教教育を施したいのだ。彼はそう思うと、居ても立ってもいられず、まるで飢え乾いた野良犬のように、各地の小学校を回って校長に頭を下げて言いました。「どうか私に児童の教育の仕事を下さい。報酬は望みませんから」。学校側は当惑し、彼の評判があまりよくなかったことから、これを断りました。
 しかし、文部大臣のフィリップ・アルベルト・シュタッファーは、ペスタロッチの実績を心に留めていたので、政府の閣僚会議で彼を農民学校の教師に任命してはどうかと提案しました。
 1799年7月23日。ようやくペスタロッチはブルクドルフという町の農民学校に初等教育の教師としての職を得たのでした。彼はその学校でサムエル・ディズリーという教師と教室を分け合いましたが、ことごとくその教育方針を異にし、衝突を繰り返すようになってしまいました。
 このため、この教師は不満を募らせ、校長に彼の悪口を言い、排斥運動を始めたのです。そこで彼の友人たちはペスタロッチを市民学校に推薦し、彼はこの学校の教師として認められ、8歳から12歳の子どもを受け持つことになりました。彼の教育法は少しずつ認められ、やがて協力者が得られるようになります。
 一方、文部大臣シュタッファーもある計画を進めていました。それは、J・R・フィッシャーをブルクドルフ城に住まわせ、この中に教員養成所を開き、学校制度の新しい維持のために尽力することになっていたのです。フィッシャーは零落した田舎の住民に配慮を傾けており、リントとゼンティスの2州の26人の子どものために里親制度を確立することに成功しました。
1800年1月。集団里子の一団が養成所の教師ヘルマン・クルージーに率いられてブルクドルフに到着し、クルージー自身がこの一団を受け持つことになりました。この中には、9歳の少年ヨハネス・ラムザウアーがいましたが、彼は後にペスタロッチの良き助け手となるのです。
 6月にフィッシャーが亡くなると、クルージーはペスタロッチに協力を求め、彼らは教師仲間として協力し合うことになりました。続いてヨハン・クリストフ・プス、ヨハン・ゲオルク・トプラーがやってきて同じく仲間になりました。
 この年の10月1日。シュタッファーによって作られた「教育制度友の会」委員会は、この学校が極めて優れているとの報告をし、全面的な支持をもたらすことになったのです。10月24日。ペスタロッチは、ブルクドルフ城内に新しい小学校を開き、同時に師範学校も併設されることになりました。
 1801年元旦。ペスタロッチは出版社主ハインリッヒ・ゲスナーに宛てて14通の手紙を届けます。その中で彼は、自分が開発した「メトーデ(直観的教授法)」という教育方法を発表しました。これは、子どもたちに知識を言葉によって教えるのではなく、実際に見て、触れて、感覚を通じて教えていくことで、知的教育(頭)、身体的教育(手)、道徳教育(心)の根本力を身につけるという教授法です。ゲスナーは非常に感銘を受け、その年のうちに自ら名付けた「ゲルトルート児童教育法」というタイトルのもとにこれを出版しました。
 「直観こそはあらゆる知識の基礎である。どんな知識もすべて直観から発しているのである。これから考えてみると、われわれの認識はすべて数・形・語から発するから、この本質的な構造が知覚できるような場合に取り次いでやらねばならないのである」。ペスタロッチは「メトーデ」の概要をこのように述べ、「数の教育」「形の教育」「言語の教育」を極めて特殊なやり方で教授していきます。
 それからまた、彼の教育法の際立った特徴として、幼児と母親の関係の大切さを述べており、「母親が乳児の最も基本的な要求を満たしてやるとき、子どもの中に愛の萌芽がふくらんでくるのです。感謝の気持ちとか隣人愛というものは人を母親と同一化することから生まれてくるのです」

 この学園は成長し、やがて各地から教育者たちが見学に訪れるほどになり、シュタッファーによって創設された「教育制度のための協会」はこの学園に対し、「最も優れた学校」との評価を下したのでした。
 しかしその年の8月15日。悲しい知らせが届きます。最愛の息子ヤーコプが死去したのです。虚弱体質と神経の疾患のために生涯苦しみ、また両親にも苦労をかけた末、31歳の若さでこの世を去りました。
 1802年11月。ナポレオンは憲法制定会議を召集し、ペスタロッチはチューリッヒの代表としてパリに赴きました。彼はチューリッヒのために幾つかの提案をしましたがほとんど採択されず、落胆しますが、思いがけない収穫もありました。
 彼が書いた「メトーデ(直観的教授法)の本質と目的についてパリの友人に宛てた覚書」という論文はパリで大きな反響を呼び、J・ネーフのもとに「ペスタロッチ思想に基づく施設」がパリに開設されたのです。
 『ゲルトルート児童教育法』が刊行された影響もあって、学園を訪問する人々が相次ぎ、ここの教師になることを目指してやってくる若者も少なくありませんでした。

 1803年、ペスタロッチは再びブルクドルフに戻りました。しかし、2月19日に発令されたナポレオンの「仲裁法令」により、連邦政府は廃止され、各県は州知事によって治められることになったのです。これは学園にとって大きな痛手となりました。
 なぜなら、ベルン州の意向で学園への助成金が打ち切られ、ブルクドルフ城は郡の長官の住居に提供されることになり、立ち退きを命じられたのです。1804年2月、州の決定により、ペスタロッチの施設は、かろうじて1年間だけ無料でミュンヘンブッフゼー城に割り当てられることになりました。
 「これは悪魔のわざです。私は子どもたちのために、この先もの乞いをしなくてはならないでしょう」と、彼は友人G・ケルナーに書いています。
 しかし、ペスタロッチには協力者があらわれます。パリから付き従ってきたヨハネス・フォン・ムラルト、サンクト・ガレン州で牧師をしていたヨハネス・ニーデラー、そして里子としてブルクドルフにやってきた生徒のラムザウアーも教師としての力量を身につけていたのです。彼らはクルージー、プス、トプラーなどと共に協力し合ってペスタロッチを支えたのです。
 そんなある日、この学園で働かせてほしいと一人の青年が訪ねてきました。どこかで見たような顔だと思った瞬間、すぐにペスタロッチはそれがシュタンツの孤児院にいた年長の子どもの一人であることに気付いたのです。
 「ヨゼフ・シュミット!よく来たね」。喜びに顔を輝かせたペスタロッチは、相手を温かく抱擁しました。そしてすぐに彼を下級教師にし、それだけでなく学園の経理・事務の仕事もさせるようにしました。シュミットは、驚くべき数学的能力を持っていました。もともと数学が不得意のペスタロッチは、彼の才能に魅了され、ほとんど魂を奪われるほどであったといわれています。
 そうするうちに、この学園の評判が高くなるにつれ、幾つかの州が学園の誘致を始めました。一番熱心だったのはイフェルテン市だったので、1804年、ペスタロッチはイフェルテン城内に学園の分校を作りました。そして、彼自身はミュンヘンブッフゼーとイフェルテンに交互に滞在することにしました。「メトーデ」の評判は、国際的なものとなり、名士の訪問、名門の師弟の入学、研修目的での教師の長期留学が相次ぎました。
 この時、学園の管理にまで自分の主張ができるようになったシュミットの提案で、ブッフゼーの事務処理をエマヌエル・フォン・フェレンベルクに委ねたのですが、この人物は学園の管理という職種の枠を越えて教師たちに生活秩序や生徒の教育の仕方まで指示し、自分の考えを強要するようになりました。
 このような学園の指導や管理をめぐる教師間の対立がたびたび起こり、信頼するシュミットは、教授法と施設内の教育について独自の意見を通そうとし、何よりも低学年の段階を廃止しようとしていました。その年頃の教育は母親に任せるべきだとし、さらに14歳の生徒にとっても施設は適切なものでないとし、次のように主張していたのです。「この学園に必要なのは英才教育ですよ。優秀な子どもの能力開発のために施設を用いるべきです。」このために、教師間の分裂はもはや避けがたく、協力者たちは、次々と学園を去って行ったのでした。
 このような状況の中で、ペスタロッチ夫人アンナが死去しました。彼女の突然の死は、立ち上がれないほど彼を打ちのめしました。「私の傍らで過ごした彼女の生活は困難なものでした。悲嘆と心配こそが彼女の宿命だったのです」と彼は友人への手紙に記しています。
 再び激しくなった教師間の争いで、シュミットは、「教育も一種の事業だから、営利というものも考えなくちゃいけません」と言って、ペスタロッチが今まで行ってきた子どもたちへの「職業教育」と「宗教教育」を排して、自分が考え出したカリキュラムを教師たちに強要し、学園の利益となるようなことのみを優先させたのです。
 また、昔ノイホーフでの危機を救ってくれたあの家政婦エリザベート・ネーフは、老いたペスタロッチの世話をするために、アンナ亡き後もずっと学園で働いてくれていたのですが、彼女もシュミットの改革の犠牲となり解雇されました。
 学校経営に行き詰っていたペスタロッチに、久しぶりに朗報がもたらされました。プロイセンのブレスラウ大学がペスタロッチを名誉教授にすることに決定したのです。力と自信とを取り戻したペスタロッチは、シュミットの助けでコッタ書店から全集を刊行する契約をとりつけました。
 ペスタロッチはここでようやく自分の本来の理想が実現できることを感じ、1818年9月、イフェルテンから数百メートルほど離れたクランディという地に貧民学校を開校しました。これこそ彼があのシュタンツの孤児院で惜しくも奪われた夢を実現させてくれるものだったのです。
 しかしながら、シュミットは有無を言わせない力で、この施設をイフェルテンの城内にある学校と合併させてしまいました。ヴァート州はヨゼフ・シュミットを好ましからざる人物として州外追放の処置をとりました。ペスタロッチはこれに対し異議を申し立てましたが、聞き入れられなかったので、彼は自分の施設を解体した後、自らノイホーフに引きこもり、『白鳥の歌』という最後の著書の中で静かに回想にふけるのでした。
 彼が死去する少し前に、思いがけずシンツナハの「ヘルヴェチア協会」が彼を会長に選びました。ペスタロッチは感謝の意を表するために衰弱した体を引きずって現地に行き、「ランゲンタールの講話」を途切れがちな言葉で一同に語りました。しかし、その後、胆のうの病のためについに帰らぬ人となったのです。1827年2月7日のことでした。
 学園の改築が必要となった時、州議会は、新校舎の壁面全体を墓碑に充てることとし、生誕100年の1846年1月12日に除幕式が行われました。そこには、今やペスタロッチの名とともに世界的に有名になっている碑文が刻まれています。
 「ここにハインリッヒ=ペスタロッチが休んでいる
 1746年1月12日 チューリッヒで生まれ
 1827年2月7日 ブルックで死んだ
 ノイホーフでは 貧しい人々の救い主
 『リーンハルトとゲルトルート』においては 民衆のための説教者
 シュタンツでは 孤児の父親
 ブルクドルフとミュンヘンブッフゼーでは 新しい民衆学校の建設者
 イフェルテンでは 人類のための教育者
人間 キリスト者 市民
すべてを他者のためになし、おのれには何ものも求めず!
その名に祝福あらんことを!」


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