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戦争は自己増殖する①

~名将ナポレオンはなぜ敗れたのか~ シリーズ➊~➌

➊「英雄」ナポレオン

▲アルプス越えのナポレオン

 1796年から1815年までのナポレオンによって起こされ、展開された一連のいわゆる「ナポレオン戦争」は、初めフランス革命を外国の干渉から守る革命防衛戦争として始まりましたが、しだいに「革命の理念の拡大」のための戦争という大義を掲げて行われ、ヨーロッパの封建体制を崩壊させ市民社会の拡張をもたらしました。しかし、それは周辺諸国側からしてみれば、一方的な侵略戦争でしかなかったのです。

 ナポレオンの生涯は戦争に明け暮れ、また戦争の勝利によってフランス国民の絶大な支持を得ましたが、彼もまた「時代のパラダイム」によって制約され、今日では、批判も多い人物であるため、ここでは「ナポレオン戦争」から得られる教訓に限定して、彼が生きたことの意味を考察してみましょう。
 
 18世紀後半、イタリアのジェノヴァ共和国はコルシカの独立運動に手を焼いて、コルシカ島をフランスに200万ルーブルで売り渡してしまいました。
 あの『社会契約論』で有名なルソーが憲法草案を書いたコルシカは、こうしてフランス領コルスとなりました。おかげでナポレオンは、フランスの士官学校に入り、フランス軍少尉となるのです。この青年はコルシカ独立運動を指揮したパオリの副官だった父・シャルル・マリ・ド・ボナパルトの影響を少なからず受けていました。ナポレオンがフランス革命の自由と平等の高邁な思想を胸に秘めていたのは、疑う余地がありません。しかし逆の立場から見れば、ナポレオンは外国から来た占領軍であり、決して自由・平等への解放者・改革者などには見えませんでした。

 ナポレオンは、自分の兄弟を占領した国々の国王に次々と任命して、ヨーロッパを支配しようとした単なる征服者にしか見えなかったのは、あの交響曲第3番「英雄」を書いたベートーヴェンにしても同じでした。
 名将の名をほしいままにしたナポレオンは、計画は緻密でスピード感あふれる機動力が持ち味であり、ヨーロッパを次々と征服したその名に相応しい優れた人物でした。万巻の書を読み、あらゆる分野に精通していたといわれています。

 しかし、彼が抱えた軍事力は、1809年には、兵士の数80万人、1812年には、100万人にも達し、彼らを養うための巨額の軍事費を必要としたのでした。国民への重税は、革命を引き起こしかねません。そのため戦争による賠償金や領土の拡張によるしか戦費をまかなう方法がなくなったのです。まさに、戦争のために戦争をせざるを得なくなってしまったのです。
 

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