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六千人の命のビザ➂

~杉原千畝とその時代状況~ シリーズ❶~❸

❸独断でビザを出す


▲杉原千畝と幸子夫人


 杉原は、幸子夫人に、ビザを出すことを独断で決意すると告げました。すると、夫人は言いました。「あとで、わたしたちはどうなるかわかりませんけれど、そうしてください。」杉原が結論を出す数日前、長男の弘樹も、「助けてあげようね。かわいそうだから…。」と寂しそうにつぶやいていました。家族の気持ちが一つになって、杉原を後押ししました。彼らが生き延びるためには、リトアニアからソ連を通り、日本を通過して第三国へ脱出するしかありません。
 
 杉原は、早速、ソ連の領事館に出かけ、日本の通過ビザを発行するから、そのビザを持ったユダヤ人たちが、無事ソ連を通過できるようにたのみました。
 ソ連は、リトアニアの占領を完了すると、8月3日にバルト三国の併合を強行し、三国それぞれに共産党を作らせ、ソ連邦を構成する共和国として、ソ連政府の直接的な支配に組み込んだのです。
 
 日本の外務省や、ソ連に併合されたリトアニアの領事館からは、遂にリトアニアから退去せよという命令が出されました。しかし、杉原夫妻は、それに従わず、「命のビザ」を出し始めたのです。人びとが18日に並び始めてから9日目に、ようやく、領事館の門が開かれ、避難民たちは、大喜びしました。
 

▲領事館前に押し寄せたユダヤ人たち


 それからおよそ一か月の間、杉原は休む間もなく、6000人以上ともいわれるユダヤ人に、ソ連領内を通過できる「日本通過ビザ」を発給し続けたのです。杉原千畝の行動に、勇気ある人間の崇高さを思うとともに、心から敬意を表せざるを得ません。
 
 杉原は、最後退去命令により、領事館を離れる駅のプラットホームを列車がすべり出すその瞬間まで、列車から身を乗り出して、「命のビザ」を書き続けたのです。
 「許してください。私はもう書けません。皆さんのご無事を祈っています。」返ってきた言葉は「スギハラ、私たちは、あなたを忘れません。もう一度あなたにお会いします。」
 
 戦後2年経って、杉原は、ようやく日本に帰国。外務省から「命に背いた」ことを理由に事実上解雇され、外務省を去り、戦後の混乱期を過ごしました。 
 1968年のある日、日本のイスラエル大使館から、杉原に一本の電話がかかってきました。あのビザを書いてあげたユダヤ人の一人からでした。イスラエル大使館に参事官として、赴任してきたのです。二人は、28年もの歳月を経て再会を果たしました。ユダヤ人の手には、ボロボロになった、あのときのビザが握られていました。ユダヤ人は、杉原のことを決して忘れることはなかったのです。
 
 イスラエル政府より、杉原に日本人初の「諸国民の中の正義の人賞」が贈られました。あるユダヤ人の母親が言いました。「あなたがいなければ、私の子どももいなかった」と。
 
 アウシュヴィッツで大量殺戮に加担するのも人間なら、命令に背いてまで罪なき人々の命を救い続けるのも人間。人間は、「勇気」さえあれば、立派な存在、崇高な存在になることができるのです。
 

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