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統一教会員の間違い⑪ 主体の責任を果さないものは「主体者」ではない

統一教会員の多くが、夫を「主体者」妻を「相対者」と呼ぶことが多いのですが、この「主体」とはどういう位置かを、文鮮明先生はどのように話されているでしょうか。

牧会者の道
第五章 牧会者と食口指導
第二節 主体・対象とカイン・アベル
一 主体と対象
3 主体者の責任
より抜粋
私はどこへ行っても、工場に行ったとすれば工場長になって働くのです。こういう信念がどれほど偉大であるかというのです。すべてのことに私が対することができるという信念は偉大な思想です。偉大な思想だというのです。「これを間違った、あれは間違っている」ということを知り、直ちに社長に会って「あなたの会社はこうです」と言えば、「おお、それがどうして分かったのですか」と言うのです。

「どうして分かったって? やってみたから分かるでしょう?」、こうなるのです。さあ、私たちの「ワシントン・タイムズ」が新聞オリンピック大会で一等になりました。その時に、私が責任者の立場で全部「ここを直しなさい、そこを直しなさい」と言いながら指導しました。こういう原則を知って皆さんが生活に適用するようになるとき、どれほど膨大な力の世界を自由環境としてもち得るかという、驚くべき事実を発見するのです。弱者になることができないのです。

 これを思うとき、先生が皆さんに「これ、教会に座っていないで地方の責任者に会い、既成教会の責任者に会いなさい」と言うのは、第二人者になりなさいということです。第二人者です。それもやらずにどんと座って、ムーニーでありながら仕事もせずに、責任者だというだけで、相対の前に主体格になれないで「主体だ」と言うので滅びるのです。主体の位置にいて、対象の前に主体の責任も果たせない立場で「主体だ」と言っていては滅びるのです。プラスがなくては発展できないのです。そうであるために、責任者は食口たちよりもさらに努力し、さらに活動しなければならないのが原理です。分かりますか? そうでなければ詐欺です。どろぼうになるのです。詐欺師です。(一三一―二二三)

4 原理的生活観においての責任者の立場
 責任者、主体というものは全体に責任を負わなければなりません。全体に責任を負い、その相対となる人たちが良い所に行くことができるように道しるべの役割をしなければなりません。道を整えてあげて、平坦な大路を整えてあげて、相対がまるでハイウェイを走ることができるようにしてあげればしてあげるほど、彼は偉大な主体です。簡単です。道理は簡単なものなのです。何の話か分かりますか?

 家に帰った時、妻がいくら横になってグーグー寝ていても、「私がきょう責任を果たせなかったので妻がこうなんだなあ」、こう思わなければならないのです。「私が責任を果たせなかったために待っていないのだなあ」、そう考えてみましたか? 食事も作らないで昼寝をしていてもです。そういうふうに考えなければなりません。対人関係も全部そう考えなければならないのです。

 初めて対する人が誤ったときは、私がこの人に何をあげ、何を投入したか考えなければなりません。そうすれば、失敗しても許してあげる天理をここから発見することができるのです。私が主体者として喜んで対してあげ、非常にうれしがることを願わなければならないのであって、そうしないでうれしがることを願うのはどろぼうです。どろぼうは別のものですか? 他人が苦労した畑に行って、苦労せずに取って食べるのがどろぼうでしょう? 悪はそこから生じるのです。

 こういう原則的な生活観において、皆さん責任者の立場がどういうものだということがもう確実に分かりましたか? 分かりましたか、分かりませんか? (分かりました)。分かったという人は、手を挙げてみよう。(八一―三〇五)

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