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続・DXについて今更ながら考えてみた

私の属するIDLのダイレクター・辻村がこんな記事を書きました。

とても触発されたので、勝手に続編として書いてみます。IDLのデザインワークでも企業や自治体のビジネス、産業領域におけるDX支援の機会が増えています。リサーチやワークショップを通じて、組織やサービス、仕組みをデジタル化する意味、価値を探索するプロセスは必然的に「なぜ」「なんのために」と問い続けることになります。その点で件の記事の中心にある、エリック・ストルターマンが提唱したとされるDigital Transformationの概念はひとつの拠り所にできると感じました。

ICTの浸透が、人々の生活をあらゆる面でより良い方向に変化させるデジタルトランスフォーメーション(Digital Transformation)

記事ではその対象を「人々の生活をあらゆる面で」と広く定義するストルターマンの概念と、ビジネスや産業領域で用いられるDXとを便宜上分けて紹介しています。両者の間には論点(視点)に大きな違いがあるように思います。同記事中でも引かれた経済産業省のDXの定義は下記のとおり。

企業がビジネスの激しい変化に対応し、データとデジタル技術を活用して、顧客や社会のニーズを基に、製品やサービス、ビジネスモデルを変革するとともに、業務そのものや、組織、プロセス、企業文化・風土を変革し、競争上の優位性を確立すること。

デジタル化を企業活動に能動的に取り入れる、手段としての意味合いに受け取れます。翻ってストルターマンの論考では(人々の暮らしとビジネスとで対象は異なるものの)、デジタル化は不可避の現象であり、いまはその変革の只中にあり、最終的にはデジタル化以前の社会を構成していたあらゆる物事と不可分になっていくだろうとしています。デジタル化した社会においてどのような姿勢が求められるのか。以下、いくつかストルターマンの論文から引用します。

・この変革のもうひとつの重要な側面は、デジタル・オブジェクトが物理的な現実の中で基本的な素材となることです。デザインされたオブジェクトは、環境の変化や状態、人間や他のオブジェクトが行った行動について、自分自身や自分が属するネットワークに情報を提供する力を持つようになります。これは情報技術の反射性という概念に新たな次元を加えるものです。

・デジタル技術の影響を大きく受けた人間の生活世界の経験の仕方は、使いやすいかどうかの個別の実体としてではなく、生活世界全体としてのものになります。情報技術や情報システムのこのような側面を理解することは、これまで以上に難しくなるでしょう。個別に分析したり、還元主義的な方法で理解することは不可能です。

人々の生活に物体やサービスを通じて溶け合う情報技術(ICT)=デジタル。それゆえにひとつひとつのICTを手段やツールとして捉え個別のフィードバックで評価する考え方では、デジタルとアナログ的な体験がシームレスである人々にとって重要な関心事や価値観を損ねてしまう可能性を、デジタル・トランスフォーメーションへの警鐘として示唆しています。

こうした状況において本論文ではより良い生活を全体的な体験としてはかるものさしとして「美的経験」という概念を提唱しています。本稿では「美的経験」を掘り下げることはしませんが、このように全体的な体験や環境、俯瞰的な連続した視点でデジタル化を考えることは非常に有効なのではないかと考えています。ICTやデバイスが提供する利便性や効率性だけでその価値を捉えていては見逃してしまう問題や、別の可能性に気づく機会となり、そうした理解においてあらためてICTやデバイスの価値を再定義することができます。また、その時には企業活動におけるDXでもこれまでとは違った面から「競争上の優位性を確立すること」ができるのではないでしょうか。


「格差の自動化」と「テクノエイブリズム」

ちょうど邦訳版が発売されたばかりのヴァージニア・ユーバンクス「格差の自動化」(原題:Automating Inequality)では、AIによるデータ分析、収集データやリスク予測によるアルゴリズムが、医療、司法などの公共サービスの自動化に用いられることにより、貧困コミュニティをさらなる苦境に追い込むと論じています。

同書では著者が研究対象としたアメリカでの事例をもとに、公共サービスが自動化されたことで本当にそれを欲している人に届かないケースを紹介しています。たとえばインディアナ州のケースでは生活保護受給資格の自動化が取り上げられています。ここでは福祉システムの合理化による費用削減が名目でした。しかし著者は、担当するケースワーカーが受給者と関係を築き、不正を働くケースが起点だったと指摘しています。実際に同州ではケースワーカーと受給者が結託し、政府から搾取したケースがありました。これを裏付けるかのように、州は約1,500人いた地域のケースワーカーをオンラインのフォームとコールセンターに置換。結果起こったのは3年間で100万件の需給拒否。それ以前に比べて54%も増加しました。

ペンシルバニア州の児童福祉施設では、データベースに登録されている家族から、統計モデルを用いて将来的に虐待やネグレクトの被害者になる可能性のある子どもたちを予測。著者は、これがソーシャルサービスの利用状況に応じて特定の家庭に高リスクのスコアを与えるモデルで、中流階級や富裕層の家庭は一般的に公的な社会サービスを利用しないため評価されず、結果人種的な偏りを生み出している可能性を指摘しました。実際の導入現場ではケースワーカーがモデルのスコアを参照し、自分で判断するというものでしたが、簡単に悪用されてしまう監視ツールだと見られています。

「格差の自動化」とは別に、もうひとつ関連して考えたい概念があります。『文藝』2021年秋号(河出書房新社)にて韓国のSF作家による座談会企画がありました。

そのなかで「最近関心を持っている科学技術や分野はありますか」という問いに対し、短編集『わたしたちが光の速さで進めないなら』(早川書房)で知られるキム・チョヨプはテクノエイブリズム(Technoableism)という概念を紹介していました。トランスヒューマニズムに批判的な関心を持っているとする彼女は、医学的な治療、外骨格の装着などをマスターソリューションとする傾向に疑問を持って下記のように説明しています。

翻訳すると、技術中心の障がい差別主義といった感じでしょうか。弁護士のキム・ウォニョンさんと障がいと技術についてのノンフィクションを書いています。個人の能力を向上、強化させて個人に責任を転嫁するのではなくて、どんな障がいを持つ個人でもアクセスできる環境を提供できる方向に技術を発展させていくことはできないか、という話になると思います。

テクノエイブリズムという言葉はまだあまり広く使われていないようですが、同様に障がいへの技術的アプローチを能力主義と絡めて批判している記事がありました。

記事ではフィラデルフィアの美術館での催しで、車いすユーザーのためにデザインされたとする展示が能力主義的であると批判しています。展示はバックパックのようなモジュール式の器具を着用し、脊髄損傷などにより下肢が麻痺した障がい者が自立歩行するための装置とされています。

車いすユーザー当事者であるライターは、外骨格で麻痺した人を「歩かせる」というストーリーが提供者側の視点で、独善的であるとしています。以下記事より引用します。

医療用外骨格についての報道では、障害者が周囲の人と「目を合わせる」ことができるという点が強調されます。しかし、低身長や低体重を好ましくない特性とする能力主義的な要因については、一切問われません。なぜ、直立している人や背の高い人が、座ったり身を乗り出したりして下の人に近づくことが、その逆よりも平等のしるしにならないのでしょうか? そもそも、なぜ「目と目が合う」ことが望ましい状態なのでしょうか。
私は車いすユーザーとして、社会が階段信仰から脱却し、スロープをデフォルトとして受け入れるような別の未来を目指しています。
背の低い人は背が高くて直立していなければならない、運動や移動には歩くことが必要である、歩くことはスムーズで速く、均一でなければならない、といった前提から離れることで、発明家は障害者にとってより有用な技術を設計できるかもしれません。(いや、いっそのこと、障害者のデザイナーによる技術がもっとあってもいいのでは?)

ここで挙げた二つの例は、冒頭のDX/Digital Transformation論からすると飛躍と感じられるかもしれません。私自身批判的な視点で選んでいる自覚もあります。

ただしどちらについてもICTやテクノロジーそのものを否定するものではありません。行政サービスの自動化も、技術による身体性の補助にも確かな価値があり、導入の目的や対象に対しては効果を挙げています。一方で、その恣意性により不平等を助長していたり、当事者を置き去りにしている可能性がある。それが望ましい変化なのかどうか、問うてみる価値はあるのではないでしょうか。

社会の複雑性から逃げずに「より良い生活」の実現を考える

ICTやデバイスが持つ機能をシンプルに、一義的な価値のやり取りで留めてしまうのはある種の危険性を孕み、また別の可能性を奪ってしまう恐れがあるといえます。「人々の生活をあらゆる面でより良い方向に変化させる」というストルターマンの定義するDigital Transformationの在り方を実現するのはとても難しいですが、理想を掲げるにも、世界の複雑さから目を背けていてはできないでしょう。それこそDXをテーマにしたカンファレンスや各種資料でも多く引かれているわけで、概念の初出として片づけてしまうには惜しい視点です。

ましてや効率性や利便性、単一的な課題解決を目論んだデバイスやツールの導入が「競争上の優位性を確立すること」につながるのかどうか。行政はもちろん、民間企業にもESG経営、持続可能な社会への貢献が求められているように社会や時代の要請が変化するなかで、社会の複雑性とともにDXを考えた先に「競争上の優位性を確立する」ための利他的なものさしがあるかもしれません。

辻村の記事に触発され、DX/Digital Transformationについて思索を巡らせました。ここまでの思考は個人的にはしっくりきてます。「より良い生活」とは? 件の論文で提示された「美的経験」とは? ICTと人間が不可分な状態における「ウェルビーイング」の在り方にもヒントはありそうです。

引き続き、探索してみます(つづく……かどうかは未定)。


参考

Information Technology and The Good Life, Erik Stolterman and Anna Croon Fors, 2004
https://link.springer.com/chapter/10.1007%2F1-4020-8095-6_45

Automating Inequality - Macmillan
https://us.macmillan.com/books/9781250074317

'Automating Inequality': Algorithms In Public Services Often Fail The Most Vulnerable
https://www.npr.org/sections/alltechconsidered/2018/02/19/586387119/automating-inequality-algorithms-in-public-services-often-fail-the-most-vulnerab

The Troubling Technology and Ableist Mentality of Medical Exoskeletons
https://hyperallergic.com/530652/designs-for-different-futures-at-the-philadelphia-museum-of-art/

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