見つめるということ、見つめられるということ。
みなさんはどんな時に写真を撮りますか? きっといろいろなきっかけがあるはずです。例えば、心が動いたとき、素敵だな、好きだなと思ったとき...? もしかしたら人はそんなときにカメラを向けて「写す」のかもしれません。
そう考えてみれば反対に「写される」ということは、それほど「写す」人から大切に思われている、とも言えます。多くの場合、「写す」と「写される」は、その関係の中でおこなわれているのではないでしょうか。
そして、それは同じ時代を生きている者同士でしかできないことでもあります。その時、その場所に、互いが一緒にいるということ。あまりにも当たり前のことゆえに見落としていた、その関係の奇跡に気づいた時、涙が出そうになるのに、心があたたかくなるような不思議な気持ちになります。
写真とは、そのように写ってもらえる何かがあってようやくそれらしきものになるのだと思います。だから、写真は撮らせていただくもの、撮ってさしあげるものという意識が根底にあります。
一方で、常々、撮影とは身勝手な行為だとも思っています。都合のよい部分だけを切り取り、ときには望まない気持ちを想像できず、見たくないものとは目を合わせない… 意図しない存在に指図し、撮ることが何よりも優先され、あまつさえ「撮ってあげる」と、さも権力があるかのように振る舞っては、高尚なものとして一方的に押し付ける… そんな光景を今まで何度も見かけてきました。自分もそんな態度になっていないか? そうすることで誰かを傷つけていないか? と自問する日々です。
写真は、すべてのものごとを写すことはできないし、美化することもその反対もできてしまうから、誰かを簡単に欺くこともできれば、絶望させることもあります。意図するかしないかに関わらず、ともすれば残酷で罪深くもある撮影という行為には、誰かを傷つけてしまうかもしれない可能性が必ずあるのだと思います。その結果によっては、いつか社会が写真を撮ることを許さない日が来るかもしれません。そんなことをよく考えます。
それでもなお「写す」と「写される」という関係のなかにある、善なるものをまだ信じていたい。大切なものや人を想う気持ち、それが写すという行為の本質にはあるはずで、その眼差しを素直に受け止めたい。その喜びをいつまでも抱きしめられるならどんなにいいでしょう。できれば、見つめるということ、見つめられるということの幸せを共に祝いたい、そう願っています。
odolの『不思議』という楽曲には、誰かを見つめ、見つめられて今を生きることの尊さが込められていると思います。そして、いつか一緒にいられなくなることを知って、その時間を残しておこうとするのは、まさしく「写真」というものが生み出す関係と同じではないかと気づいた時、いてもたってもいられなくなり、すぐさまビデオをつくりはじめました。
誰もが写真を撮るこの時代において、それを見ることはあっても「写している」人たちの姿自体が残ることはなかなかありません。しかし、それは自分たちが「写される」ときに必ず見ているはずの光景でもあり、ほんとうはそこにもたくさんの表情があることに気づきます。翻ってそれもまた愛おしく感じるのです。このビデオではそんな視点をたくさん集めてみました。
見つめるということと、見つめられるということが、ときには等しい関係になれる。このビデオに登場する人たちが向ける眼差しは、もしかしたら、普段誰かが「あなた」に送っているそれと同じなのかもしれません。
(そういえば「まなざし」は「愛指し」とも変換できますよね)
ちなみに『不思議』のビデオは、ほぼ同じレンズを使って撮影されました。それは、もともとは映画をスクリーンに映すための、つまり映写機のためのレンズでした。撮影用カメラのために改造されたそれは、実は、写すためではなく、むしろ映すためにつくられたものだったのです。
写す人を、写したのは、映すレンズだった。
このビデオを誰がどの立場で観るかを表すためには、このレンズを使うことが必要だったのです。ご出演いただいたみなさんは、ありのままに、ほんとうに「写し」てくれています。ただそれを写しました。
たくさんの人たちのご協力のもとつくることができました。この場を借りて、改めてご出演いただいたみなさんに感謝を申し上げます。自分にとっても一生に一回の宝物のようなビデオになりました。ありがとうございました。