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最後の一枚

週末は高知に行ってきた。朝一番のプロペラ機は人もまばらだった。いつもは窓の外の風景を楽しむのにいまいちそういう気分にはなれなかった。ただ眠かったからかもしれないし、気が重かったからかもしれない。厚い雲を抜けて降下した機体は海上を旋回したのちガタガタと揺れながら空港のアプローチを滑った。

午前8時半、バスで高知駅まで向かった。駅中のベーカリーで朝食をとる。一人用の小さなテーブルの中央にアクリル板が垂直に立てられており、さらに狭いスペースになっている。ふと、我に帰ったように「これは一体どういうことだろう」と思う。そういうあれこれが滑稽だったと思える日がいつか来ることはあるだろうか。用事まではまだ数時間あった。そのまま居座るのには気が引けたので向かいにある別のカフェに入りなおした。手の消毒ばかりしている。

窓際のカウンター席でPCの電源を確保し、苦手な電話を何本かした。もしかしたら車を買うかもしれない。いや、もうそういう話で進んでしまった。先週知り合ったばかりのディーラーが探していた中古車を見つけて早速オークションで落札したという。覚悟がないような気持ちになるのは、望んでいることだったのに、同時に書類だとか連絡だとか面倒な部分を想像してしまうからだ。窓の外は大雨だった。高知はよく降るらしい。

駅前でタクシーを拾って目的地に向かった。ドライバーが高知弁で話しかけてくる。「高知で『電車』ちゅうのはみんな路面電車のことを言うき、ディーゼルで走っとるJRは『電車』とは言わん」とか、流れで「子供んころ三馬鹿トリオ言われとった友達も今となっては残ったのは私だけですわ」とか言う。マスクをしていてよく聞き取れないが適当に相槌を打った。”三馬鹿トリオ” という重言が気になり始めた頃、目的地に到着した。

“裏口へおまわりください” 正面玄関の自動ドアにはそう案内用紙が貼り付けられていた。正面の出入りを一時的に取りやめているらしい。裏口から入りエレベーターに乗った。受付で名簿に面会する友人と、それから自分の名前を記入した。その友人のことはずっとニックネームで呼んできたので、名前を書くなんてはじめてだった。

病に伏せた友人はもう言葉を発することができなかった。目を合わせたり手を握ったりしてコミュニケーションをとる。それから何年も前に撮った友人の写真を見せた。自分でもすっかりその存在を忘れていた写真を見つけたので持ってきたのだ。写真のなかで戯けている自分の姿をはじめて見た友人は大笑いして、咽せた。笑おうとすると苦しくなってしまう。落ち着いたあと親指を立てるジェスチャーを見せてくれた。言葉はでない。今頃になってしまって申し訳ないと思った。

フィルムカメラは撮れる枚数に限りがある。だからいつもはあえて最後の1枚は残すようにしている。撮り切ってしまうと新しいものと交換するあいだは撮れないし、もし最後の1本ならそのあとはもう何も撮れなくなってしまうからだ。でも今日はぜんぶ撮ってしまった。絶対にいましか撮れないと思ったからだ。写真家の役目はさまざまだけれど、突き詰めると誰かが生きている姿を未来に残していくことだと思っている。でも今日ほどそれを実感することはなかった。

帰路のプロペラ機からの光景は、見たこともないような美しい夕焼けだった。いつもならしっかりフィルムで撮っていただろう。でも今日はもうない。仕方がないのでスマホで撮ったあと、流れて消えゆくそれをただ眺めた。

フィルムの最後の一枚に何が写っているかは書かないでおく。そうするのが良いと思っている。

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※「一日遅れの日記」に寄稿した原稿を加筆修正した。

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