「マルハラ」は教育の必然的結果
半年ほど前に出た「マルハラ」という言葉がある。
参考:東洋経済オンライン
LINEにおける「。」が威圧的で恐ろしいという。
若者とLINEで連絡する時には気を付けようというようになるのだろうか。
「いい加減にしろ」と言いたいのが私を含めた大部分の大人の意見ではないかと思う。
(これはマイノリティを大切にしろという話とは違う。)
こんな戯言自体はどうでもいいのだが、ここには現在の教育における重要問題を含んでいるように思える。
これはまさに「心身の苦痛を感じている」=「いじめ」という定義そのものである。
ここに理由の如何や事情は問われない。
この根幹にある「いじめられている者を最優先で守る」という制度設計の思想自体は、極めて正当である。
一方で「どんな時でも絶対に人に嫌な思いをさせていはいけない」=「私は如何なる場合も不快にさせられない」と拡大解釈してしまうと、話が変わってくる。
その解釈だと、人と共に生きていくこと自体が不可能になるし、かえって息苦しくなる。
人と人とが一緒に生きていく以上、利益の相反をはじめ嫌なことにも直面するのは必然だからである。
即ち、過剰な人権意識の暴走である。
今後は社会全体として「了解しました。」とLINEを送っていた上司側が気を遣うことになるだろう。
「苦痛を感じていたのに気付かずにごめんね」ということである。
(もちろんこの時↑にも「。」をつけてはいけない。)
もはや本来コントでしかない世界が現実化し、現在進行形で悪化している状態である。
これらの前提となっている考えがある。
それが「平等」という名の仮面を被った「悪平等」である。
度々紹介しているが、野口芳宏先生の言葉に
「安心、安定、秩序、格差。」
というものがある。(ちなみにこれにもきちんと句読点がつけられている。)
「差が秩序を保つのだ。安易な平等主義はむしろ危険である。」
とも述べられている。
全くもってその通りである。
(引用元:『心に刻む日めくり言葉 教師が伸びるための 野口芳宏 師道』
野口芳宏 著 さくら社
特に大きな組織であるほど、格差がなければ秩序は存在し得ない。
家庭のような小さな単位であっても、親と子どもの立場の間には、れっきとした差がある。
もしも差がないとしたら、親子で義務も権利も全く同一になるはずだからである。
例えば勤労や納税の義務を児童にも課すことになり、それは明らかな違法行為となり、矛盾が生じる。
あらゆる関係には格差が生じ、それにより秩序と安定がもたらされ、安心して生きていける。
たとえ「双子の兄弟」というごく近い立場ですら、兄と弟という立場の自覚がそれぞれ自然と醸成されるという。
会社も同様である。
上司と部下が同じ立場のはずがない。
直属の上司の正当な命令に対し「何で私が命令されないといけないのですか」という部下。
明らかな異常事態であり、安心も何もあったものではない。
学校においては、管理職と教諭の立場が同じであるはずがない。
(だからこそ、理知的で徳のある管理職が各所で切望される訳である。
そういう人物の命令であれば進んで聞きたいと願っている人は多い。)
会社や学校ならまだ命には別条がないからいい。
これが、医療関係や自衛隊のような組織だったらどうだろうか。
人命、あるいは国家の存亡に関わる非常事態である。
上意下達が常にスピーディーかつスムーズに行われることが切望される現場である。
これが聞いたところによると、冗談抜きに、そういった組織にまで浸透してきているという。
日常における上下関係や規律が、緩くなって崩壊しかけているという。
これはそれぞれを突き詰めて遡っていけば「あいさつできない子ども」「不敬な子ども」の延長線上にある。
つまり、義務教育段階における、学校教育の問題でもあり、教育の必然的結果ともいえる。
特に自衛隊のように強力な軍事力をもつ組織において「上司の命令」は絶対である。
命をかけて国を守る非常事態の命令に
「危ないから嫌です」「それってあなたの感想ですよね?」
では話にならない。(後半はネタである。)
「さすがにそんなことにはならないだろう」とのんきに笑っていられる事態ではない。
次のデータがある。
「世界実情データ図録」もし戦争が起こったら国のために戦うか(2017~20年)
ちなみに日本語での設問文の全文は
「もう二度と戦争はあって欲しくないというのがわれわれすべての願いですが、
もし仮にそういう事態になったら、あなたは進んでわが国のために戦いますか」
であるという。
各国の言語で、同じ内容の設問文になっているという。
戦争自体は良くないという前提に立っていることを先に伝えた、かなり気を遣った文章である。
当時緊張状態とはいえまだ戦争が始まっていなかったウクライナでは「はい」の割合が「56.9%」である。
これすら国際比較の中では比較的低い方である。
一方の日本の「13.2%」は、明らかに世界の中における「異常値」である。
日本同様に常に周辺国からの危機に晒されている中国や韓国、台湾といった地域の意識とは雲泥の差である。
過去に「複雑な経緯」があったことを差っ引いたにせよ、現在は明らかな平和ボケである。
大人になっても「戦争」=「とにかく悪い、ダメ」というレベルの単純思考に留まっているせいかもしれない。
(ここについては義務教育段階におけるかつての歴史授業のお粗末さと関係が深いと思われる。)
これは「とにかく嫌な思いをさせるのは悪」という「マルハラ的思考回路」と一致するように思えてならない。
「戦争の時は自衛隊に任せておけばいい」と思っているのかもしれない。
その自衛隊の大部分は、日本の義務教育を受けた日本国民によって構成されているのである。
この記事を元々書いたのは「建国記念の日」の振替休日だったが、自分の国を大切に思う気持ちを育むことは、各国の教育において必須である。
それでも、有事において最も頼りになる自衛隊については、しっかりやってくれるに違いない。
しかし、国内の統制がぐちゃぐちゃで国民に秩序がなくなれば、国としての内部崩壊があり得る。
先のアンケート結果を見ると、有事の際には秩序が成り立たないことが心配される。
たかが「マルハラ」であるが、多様性の尊重の暴走とも捉えられる。
立ち止まって、この下らない現象を一つのきっかけに、現在の教育の在り方を考え直していきたい。