教育は受けてが全て

今年、小学館及びEDUPEDIAの取材を受け、それが先日以下のオンライン記事で公開された。

7/22【松尾英明先生の学級にまる1日密着! 不親切教師の自治的学級づくり】
#1 子供たちとつながり、子供同士をつなげる朝の会

自分の学級の話なのに、他者目線で切り取ると、自分の認識では気付かなかった側面が見えてくる。

「受け手が全て」ということである。
これは以前書いた「贈与」の話とも共通する考え方である。
今回はこの点について。

自分としては、学級において必要なことしかしていないつもりである。
要らないことや適さないことなら、なくす、あるいは変えていく。
だから、今現在全てがこの記事のままかというと、そうではない。
その形の一時点において、観察された記録といえる。

同じものを見ても、人によって受け方は違う。
私の学級を見たある年の実習生は「もっときちんと話を聞かせなくていいのですか」と質問してきた。
また、授業参観の際に我が子の「話を聞く時の姿勢がよくない」ということがすごく気になる保護者もいる。

これは、一つの事実であり、真実ともいえる。
そして、真実は人の数だけある。

ある参観者は「聞いてない子どももいたのに、周りの子どもが教えてあげる関係性が素晴らしい」と評する。
あるいは「形に拘らず、本質的に聞けていることの方を大切にしている」と評する人もいる。

学級の様子を見て「子どもたちが自由に活発に交流しててすごい」と言う人がいる。
一方で、私は直接言われたことはないが、心の中で「めちゃくちゃで統率されてない」と見ている人もいるかもしれない。

多分、どの意見も真実なのだと思う。
指導者である私自身は、誰がどう捉えるかについては、あまり拘っていない。
そして、評されている子ども自身も、多分特に考えていない。

「そういう風に受け止めるのか」という発見だけである。
本当に、受け止め方も多様である。
価値観が違うということは、フィルターが違うということであり、事実は同じ入力なのに、出力は異なる。

誰が決めているかというと、私ではない。
見ている人である。

「観察されている」ということにより存在が始まる。
量子論に通じる話である。

そう考えると、(常々同じことを言っているが)教育は、受け手が全てである。
教師がどんなに熱心に話そうが素晴らしい指導をしようが、相手が受け止めてなければ無意味である。
いや、熱心さや情熱、優しさや配慮が、相手の受け止め方によっては、害悪にすらなり得る。
逆に、素っ気ない態度や力の抜けた指導が「心地よい」「丁度いい」と感じる子どももいる。
同じことを「やる気がない」「もっと丁寧に」と感じている子どももいる。

保護者に関しても同様で、子どもの受け止めている真実と、親が受け止めている真実も異なる。
例えばある教師に対し「宿題をたくさん出してくれて素晴らしい先生だ」と心から思っている保護者だって当然いる。
子どもがどう受け止めているかとは全く別である。

例えば、けんかを仲裁してあげない、ドリルの〇つけをしてあげない、ということにも、指導者としてはねらいがある。
これを「一見不親切な本当の親切」と捉えるか「単に本当に不親切」と捉えるかも、相手次第である。
こちらの意図が伝わらないということは、多々ある。
その点は、「一見親切」にしてあげたところで、同じである。

どれもこれも、教育活動を受けている側が真実を決めている。
ある意味、とても主体的である。

ともあれ、だからといって教育が何でもいい訳ではない。
こちらとしては、ねらいをもって行っている。
意欲をもって欲しいし、学力向上も生きる力を育んで欲しいとも願っている。
しかしながら、それを主体的にするのが自分だとしても、学びの主体は子ども自身なのである。

逆に言えば、こちらが何をねらって善意でどうこうしようが、完全なコントロールはできないということである。
できる限りの最善を尽くし、結果を受け止める。
「人事を尽くして天命を待つ」とは、至言である。

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