見出し画像

短笑物語”不審な人物”

不審な人物


週末C氏の上司の壮行会が、東京銀座で行われた。
普段は生麦駅周辺で飲むことの多いC氏にとって、久しぶりの気晴らしになったようだ。

ビールから始まり、彼の好きなバーボン、その後取締役のD氏の提案で老酒のロック、これがまた妙にいけるのだった。C氏の最大の好物「ウイスキーのビール割り」に勝るとも劣るほどの酔い心地なのだった。そのおかげでC氏は、普段のアルコール摂取許容量を遥かに越えてしまっていた。

二次会のカラオケではC氏とD氏のマイクの奪い合い。会社一の美女、森山田嬢は呆れて帰ってしまった。結果的に声質と企画力で負けたC氏は、まだ歌い足りない会社の仲間と銀座駅で別れ、ひとり地下鉄に乗ったのだった。

「今日は久しぶりの都会だった。たまには都会の排気ガスを吸わなくちゃ、オッ肺に悪いよな…」
窓の外を見ながら独り言を言うC氏であった。

窓にはもちろん外の景色は映らない、地下鉄だから。
窓の反射を利用してすぐ右隣にいる若い女の子の顔を見つめているのだ。吊革に全体重をかけ、ブラブラ身体を揺すりながら、さりげなく隣の女の子に触れているやり方がスキップ・ビート(スケベ)だ。

「すみませーん」
自分が悪い訳じゃないのに、隣の彼女が謝った。目と目が合ったC氏は顔中を肉まんのようにクシャクシャにして微笑んだ。
「どういたしまして。わたしはスケベではありません」

返事が不適当であったことを理解することもなく、C氏は視線を目の前の窓に戻した。
「そう言えば、駅前に留学中のNOVAには随分ご無沙汰だったな…アイ・アム・ア・バッド・ボ~イ~~」

ふと、隣の女の子越しに、扉の脇にある注意書きを声に出して読んだ。
「駅構内又は車内で不審物、不審な人物を発見した場合は、直ちにお近くの駅係員又は乗務員にお知らせ下さい。―営団地下鉄―」

読上げた声が大きかったのか、隣の女の子がC氏の顔をにらんだ。

C氏は窓ガラスの反射を利用して周囲の状況を確認した。
吊革を握る彼の腕が震え始めた。

「不審な人物…そんな人物…そんな人物ばかりじゃないか…」

C氏はだんだん不安になってきた。落ちつきがなくなり、目がキョロキョロと絶え間なく動いている。
左隣の男を見た。頭が禿上がっていて、コートを着ている…不審だ!
その隣、イヤホンをしながらNHK英会話のテキストを読んでいる白髪の男…不審だ!
その隣、ヘアーを七三に分け、腕には腕時計をしている…不審だ!
後ろを振り返った。髪を茶色に染めているOL風の女が髪をかき上げた…不審だ!

「なんだ、この電車は不審なやつばかりじゃないか! …ええと、乗務員に連絡するにはどうすればいいんだ? そっか、これか、このボタンを押せばいいんだな。よおし!」

C氏はそろそろと手を伸ばした。赤いボタンを押そうとしている。
ガタンと電車が揺れた。
伸ばした手が右隣の女性のオッ肺(ぱい)に触れた。

「車掌さーん! 変な人が! 不審な人物がいまーす!」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?