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大理石の目玉と対峙して、裏返しになった自分の姿を見る - 舟越桂 「私の中にある泉」を見た話


好きな日本人アーティストは誰かと問われたら、まず頭に浮かぶのは棟方志功と藤田嗣治、そして船越桂か。渋谷。駅からBunkamuraの先にある松涛美術館まで歩いて、船越桂の企画展を見に行った。渋谷に行くのは、一体いつぶりだろうか。

白昼夢というのが正しいのか分からない。

いずれにしても、あれは昼間の出来事。彩色された大理石で作られた眼球と目を合わせた時、私は思わず硬直してしまい、終いにはその目玉に吸い込まれてしまったんだった。その目玉から伸びた手が、私の目玉をぎゅっと掴んで、内なる自分を無遠慮にずるずると引っ張り出して、身体が裏返しになった。そして私の身体の内側、臓器、感情がすっかり露わになった。私が見ているその目は、私を全く見ていなかった。その目は、私ではない私を見ているようで、それがとにかく末恐ろしかった。そんな感覚を覚えている。あれはいつだかの庭園美術館での出来事。

その目玉と再び対峙して、裏返しになった自分の姿を、あらゆる手を尽くして隠そうとした。つまり、徹底して格好が悪い自分と対峙した。ただ隠しようもなく、否応無しに自分と向き合うことになる。ただそれが清々しかった。もしかしたら、長いことこの感覚をずっと求めていたのかもしれない。

舟越は、一貫して人間の姿を表すことにこだわり、「自分の中の水の底に潜ってみるしかない」と、創造にあたってまず自分自身と向き合う姿勢をとり続けてきました。その背後には「ある個人を特定して語っていく事、それが普遍的に人間について語る事になっていく」という思いがあり、また創作の源となる作者の内面は、ひそかに外につながる水脈を保つ地底湖のように、社会的あるいは個人的な様々な事象を受けとめ揺らぎ続けてもいるのです。

今回の企画展は、船越桂の最初期の作品から最近の作品まで幅広い。そして実寸のスタディーと木彫を見比べるのは純粋に興味深い。ただ今回特徴的なのは、家族とのつながりではないか。ポエティックなタイトルが俳人の母からもたらされていたとは知らなかったし、彫刻家の父保武の影響も感じ取ることができたのは面白い。とりわけ父保武がチャコールで描いたイエスのデッサン、浮かび上がった十字架が印象的だった。


舟越桂「私の中にある泉」は渋谷区立松濤美術館にて、会期は2021年1月31日まで。


140文字の文章ばかり書いていると長い文章を書くのが実に億劫で、どうもまとめる力が衰えてきた気がしてなりません。日々のことはTwitterの方に書いてますので、よろしければ→@hideaki