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愛と豊かさについて #スロー・フロー・ブログ

今日は、先日逗子で撮影させていただいたご夫婦の写真のレタッチに集中する日でした。

先日の忙しい日々のような例外もありますが、僕はなるべく一日にやることを二つ以上入れないようにしています。

空白の時間があると心の余裕が育みやすいし、一つのことによりていねいに取り組むことができます。

何より、友人や知人に頼まれごとをしたときにスムーズにお手伝いができる。そうすることで自分の枠を広げてくれるし、何より愉しいのです。

愛と豊かさについて、あなたの思うことを書いてほしい。

午前でレタッチを終えたあと、午後は本を読んでゆっくりしていました。

雨の中、本を読む時間ってなんであんなに心が満たされるんでしょうか。映画とかもそうなのですが、もはやその内容云々よりも、読んでいる、観ているその行為が幸せなんですが、分かる方、いますか。

おやつの時間に差し掛かったとき、長年の友人から、「愛と豊かさについて、あなたの思うことを書いてほしい」という頼まれごとを受けました。

3月23日に開かれる彼女主催の『愛と豊かさを感じる会』というリトリートイベントのためだそうです。

喜んで、といったもののとても広くて端的に答えられないテーマではあります。

大学の論文で挫折する学生の共通項は「テーマ設定が広すぎること」。広ければ広いほど歴史的見聞、科学的根拠、参考文献も多岐に渡るため、到底まとまらないからというのを聞いたこともあります。

でも、あえてこの掴みどころのなさそうな、いかようなことも言えそうなテーマについて僕が考えていることを言葉にしてみたい、と思っています。

例えば豊かさとは、雨宿りができるということ。

今日は、雨が降っています。
正確には、降ったり止んだりしています。

昨日の時点では今日は一日中降るような予報だったから、一日分の食料を買って家にこもろうと思っていたのだけれど、わりと晴れ間も多くて、文章を書きたくなるような場所を求めてつい外に出てきてしまいました。

晴れ間を狙って自転車でお気に入りの珈琲屋さんへ。もう少しで着きそうなところで、小雨が降ってきました。焦らない、慌てない。

席に座ると、けっこうな大降りに。
窓からその風景を見ているとなんだか分からないけれど喜びが湧いてきました。

ありがたいな、屋根がある場所にいられて。
安堵感という豊かさに包まれました。

その程度のことに有り難さなんて感じないという人もいるでしょう。
僕もそんなときはあるし、無理に感じる必要もないと思います。

一つ言えるのは、僕の場合は人や出来事に期待するのをやめてから、感謝の気持ちが湧いてくることが多くなったということです。

そうなること、してもらえることが当たり前、普通のこととしてハードル(期待)を設けると、それ以下のことは感謝の対象にならないからです。

ハードルを捨ててしまう。
すると、あらゆることが驚きになったり、有り難いことに変わります。

何の話だったっけ。そうそう、実はこんな身近なところにも豊かさはあるというお話でした。

でも、雨宿りする場所がなくて、傘がなくなって困っている人がいることにも同時に感じます。

例えば、愛とは自己中心的な想いとおせっかい。

愛する人や大切な人に対して、多くの人が感じたことがあるのは「その人に幸せになってほしい、つらい思いをしないでほしい。」という想いや感情ではないでしょうか。

これは、まだ愛ではなくて、愛の種だと思います。
愛は行動だと思うからです。
ちなみに、愛は利他的なものだと思われがちですが、愛はいつも自己中心的なものだと考えています。

ここで「自己中心的な」とあえて強調したのは、「これは利他的な行動である」ということを自覚してやる行動ほど、ただの独り善がり、勘違いで相手のためになっていなかったりするからです。

利他的に見えるのは、自己中心的にやったことがたまたま相手のためになることもあるから。
でもそれは、あくまで結果であり、目的ではないし、相手のためになっていないように見えても愛の行動というのはたくさんあります。

この見方を取り入れると、他の誰かがしたあらゆることから愛を感じることができるし、たとえ傷つけようとしてきても自分を守ることができます。
それが愛かどうかは、いつも受け取る本人に権限があるからです。

愛を感じ取れて初めて仕事にとりかかる。

僕は、五年以上個人や企業からデザインのお仕事を受注して制作するお仕事をしてきたのですが、いつも大切にしていたことがあります。

それは、デザインをする前に、「依頼者、依頼企業の仕事を尊敬することから始める」ということでした。

僕が尊敬の気持ちをいだくときは、その人や企業のこだわり、大切にしたいことを徹底する姿勢が見えたときです。

それが利他的に見えることも多いですが、やっぱり「うちはこれを大切にしたいからしているんだ」という自己中心的なものだと思うのです。お客様に喜んでもらえたらうれしいというのも、喜ぶのはお客様であり、何かを提供する人たちができるのは、その想いを基にそれ相応の行動をするということだけです。

話を戻すと、僕は相手を尊敬できていないうちは、どれだけ技術がかっこよくても、洗練されていても、デザインに魂が込もらないと思っています。
オーダーやニーズに応えること以上に、感動してもらえるくらいに魂を込めること。

それがプロだなんて、かっこいいことは言いません。そっちの方が自分がイキイキするしやりがいを感じるからそうするんです。

そのためには、依頼者の方の愛、こだわりを感じること。でも、そんなことを言葉にできたのはつい最近のこと。気づけば僕は、愛を創造力の源にしていたみたいです。

愛と豊かさについて思いを馳せてみて、湧いてくるものだけ書いてみました。
きっと明日には、また違うことが湧いてくるでしょう。

今日はここいらで。
読んでいただき、ありがとうございました。

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