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全開アイ・ラブ・ユー 4日目その2

数時間ぶりに火を入れたエンジンは快調そのものだった。冬場だと、こうはいかない。嵐山から伸びる有料道路の終点くらいの標高でも、一度切ると気温の変化か気圧の違いかご機嫌ななめになり、なかなか再点火してくれない気まぐれエンジンであったからだ。
考えれば、気まぐれなものにずっと振り回されている感がある。
斯く言う自分も気まぐれで旅を始めているのだから、言えた義理ではないな、と思いながら、僕は知床峠の絶景ワインディングを駆け上がった。
ドライブ客も多いので、ペースは上がらない。日によっては沿道にヒグマやエゾシカも現れるのだそうな。この日は冷凍マグロに出くわした。
山道で渋滞が起こる。対向車がパッシングで何かを知らせる。二速まで落とし、車列とともに進むと、路上に凍ったマグロが幾つも転がり出した。勿論、知床の雄大な自然とは関係ない。もう少し進むとカーブの中央で横転しているトラックが目に入ってきた。荷台の口を開け、もう何本か排出しそうな勢いだ。
運転手は無事だろうか。無事だとしたら、それはそれとて災難で、丸々と太ったがゆえにずいぶん下まで転がり落ちた荷の冷凍マグロを拾いに下らなければならなくなる。
だから、運転手の適度な怪我を祈ってやった。
冷凍トラックを躱せば、車列は進みだしたのだが、年配者の運転ペースだ。単車乗りには面白くはなかった。
だから僕は、頂上の展望台にも立ち寄るつもりだったのだが、前の車のその全てが、展望台の駐車場に流れ込むのを見て、行くのをやめた。今なら前に誰もいない道を走れると思ったからだ。
展望台からの眺望と、思うがままのワインディングでは、選択肢は一つだ。
観光客と単車乗りの違いと言っていい。
そのまま展望台へ入る車列を横目に峠の下り道へと、押し込めていた鉄の檻から解き放たれた野獣のように加速した。そう感じた。あくまでイメージだ。
結構な九十九折の下りだった。四速まで上げ、カーブの手前で三速に落としエンジンブレーキを使って減速し車体を傾け、曲線をクリアした。何度もやっていると癖になってくる。独特のリズムと鼓動がカーブをこなすルーティンとなり、僕を次のカーブ、次にカーブへと逸らせた。
やがて随分先を行っていたはずの車に追いついた。山道では車と単車とは旋回力が違う。これは腕というより特性の差だ。だから直線は少ないが抜こうと思えば、抜けた。だが僕は抜かずにおいた。何だか先を急ぐようで忙しない。朝からパンだけの空腹感がそうさせた。峠を下りれば飯を喰らう。そう決めた。そうなると結局そこで抜き返されるのだ。ならばここで無理する必要もあるまい、との境地に達した。
前をゆく運転手がバックミラーを見る余裕があれば、後ろから単車に突っつかれているように見えたかもしれないが、前の車の速度から、それは無いな、と思えたので麓までランデブーに付き合った。
昼過ぎまでパンだけでよく持ったものだ。だから麓のドライブインでは旅の彩に、と肉を奮発した。この店は肉といっても牛や豚ではなく、トド肉か鹿肉の二者択一で、僕は鹿の陶板焼き1800円を食らった。かなりの出費だった。峠を下りたこの地は羅臼だ。ひょっとしたらトドの方が正解だったかもしれない。振り向いた食堂の窓から見える海を見てそう思った。
昼食のあとは海沿いの道を南下した。旅が始まって以来、ずっと青かった空が、少し灰色がかった。峠を越えると天気も変わるものだ。構わず走った。錆色の瞑い海の向こうに地図には載っていない島影のようなものを見た気がしたが、あれはなんだったのだろう。
しばらく進むと青標識に開陽台への矢印が現れた。短針半分以上使い時計回りに今朝居た場所へ帰ってきたのだ。誰かに誘われている気がしたが、もう朝に置き去りにした場所だ。構わず海岸線を南に下った。
急にヒヤッとした。空気が冷たくなったのだ。路面が濡れだした。昨日のような一車線だけじゃない。対向車線も黒く色がついていた。このまま走り続けても、車体の尻に風情もなく虹をかけている水産トラックも現れないだろう。
困ったものだ。ただ数キロ進むと道は乾き、事なきを得た。
ただ空の色は優れない。ただ雨粒を落とすこともしなかった。
別れを切り出したら、ジュンの顔もこんな風だろうか。
言えもしないのに、僕は思った。少し前の女のような気がして、ただ思っただけだ。
南に下った。数時間かけて。音の無い道だった。気にもしないエンジン音だけが響いた。
左側に見える海の向こうに、果てへと誘う滑走路ように伸びる半島が見えてきた。根室の半島だ。
道は半島の根元、風蓮湖にぶつかる所で、海から離れ、内陸に切れ込んで、湖の縁をぐるりと回り込み、また海沿いを半島の先へ、東の果てへと僕を連れて行った。
寂しげな道だった。走れば走るほどにそんな思いに駆り立てた。空の色がそう思わせるのか、果てへと向かう気持ちがそう思わせたのか。白鳥の舞う湖を尻目に、僕は東へと、ひた走った。
半島の中腹の根室の街を越えると、原野の中に放り出された。原野を越えると数軒の集落。集落を越えると、また原野が現れた。

寂寥だ。何もない場所に向かう。そんな気がしてきた。

北方領土は日本固有の領土。そんなスローガンがそこかしこに踊った。

夕暮れが、僕の背を押した。

行き着いた東の果ての道は、半島の突端の集落の中で、弧を描いていた。Uターンするように縁をなぞり、根室の街に帰ってゆく。カーブの頂点に並ぶ建物の脇に、岬はこちら、と矢印。東の果てはこの中だ。僕は五速まで上げていたギアを二つ落とし、矢印に導かれ、奥の脇道へ入っていった。

納沙布岬。東の果て。道の先は砂利敷きの広場になっていて海崖手前の柵が、ここまでだ、と地の終わりを告げた。僕は広場の日の丸が翻る下に、単車を停めた。
故国の東の果てに来た。厳密には北方領土の方が東にあるため、北海道最東端となるのだそうな。政治の話だ。煩わしい。
北の果て、稚内にあったのが野寒布岬。ここが納沙布岬。煩わしい。
岬の突端の崖の上には白い小さな灯台があって、打ち寄せる波の向こうに微かに島影が窺えた。島の名は分からなかったが、歯舞の群島の中の一つだ。
灯台の奥へ行ってみると、崖の下に朽ち果てた難破船の残骸が横たわっていた。いつから彼処にいるのだろう。もう色を無くし赤く錆果て、舳先のキールくらいしか姿を留めてはいなかった。
果ての風景にこれほど似つかわしい物はない。

オレンジ色にすら染まらなかった夕が、知らぬ間に僕の体を暮れで包んだ。
闇に包まれる前に戻った方が良さそうだ。僕は東の空にカワサキトリプルの爆音を響かせた。誰も走らぬ原野の道を、ライトをハイビームに切り替え、根室へと帰った。
叔父の教えに従い、ホテルを求めて根室駅を目指した僕は、数度の空振りの後、しょうがなく少し高めのビジネスホテルに宿を取った。一泊七千円。かなりの出費だ。一体どれほどの部屋か、と鍵を開けたが、さして広くもないシングルルームだった。窓の外も港の灯すら見えない。根室は周りに大きな街がないだけに強気の値段設定でも商売が成り立つようだ。暗くなるまで岬めぐりに勤しんだ自分を責める他ない。
街に繰り出すべくエレベーターに乗った僕は、大きな白人男二人組と同乗する事になった。話す言葉から多分、ロシア商人だ、と決めつけた。ここ根室も稚内と同じく、道路標識の青看板には、ロシア語が併記されていた。それだけロシアからの客が多いのだ。
かと言って、ロシア人がそこかしこにウロウロしているわけではなく、夜の根室は、人通りも少なく寂しいものだった。駅前のホテルを出た僕は大通りを横切り、港の方に向けて坂を下りた。
僕は食堂を探していた。名物のエスカロップを食うためだ。ついさっきまで知らなかったのだが、『根室名物』とホテルのエレベーターにポスターが貼ってあった。バターライスの上にカツ。その上からデミグラスソースが、かけられているのだそうな。
美味いかどうか判断がつきかねたが、ボリュームはありそうだし、値もそれほど張らなさそうなので、舌はもうエスカロップ仕様になっていた。
食堂からの帰り道。手持ち電話が鳴った。子安君からだ。一人きりで最果ての港町を歩く物悲しさに、子安君の声は響いた。
「おう、今何処や?」
「根室。飯食ったトコ」
「何、食ったん?」
「エスカロップ」
「何それ?」
「カツカレー&ハヤシ。カレーの部分がハヤシライスになってる。根室名物やって」
「美味いんか?」
「普通」
「地元の人にはそんな風に言うなよ。エチケットとして」
「言わんよ」
「で、今日は開陽台に行ったんか?」子安君は旅の理由を知っていた。だから聞いたのだ。彼の電話の本題もこれだ。
「うん。昨日キャンプして泊まった」
「どうやった?」
「真っ平ら。地平線。以上って感じ。叔父さんが事故った道も走ったけど、こっちは真っ直ぐ。地平線。以上。やった」
「納得したん?」
「なんとなく。ケジメとしては」
「それで今日は根室まで?」
「ううん、知床寄った」
「知床? 一人で? ジジくさい」
「一人違うよ。二人で回った」
「二人? 相手誰や?」
 言おうかどうか逡巡したが、彼女のことを誰かに聞いて貰いたいという思いが、自分だけの宝物にしようという思いに勝った。
「女子大生」
「なにッ」
「東京の女子大生。向こうも一人でツーリングに来てて、名前はナオっていう」
「…」子安君は電話の向こうで黙り込んだ。
「昨日、網走で知り合って、今日、知床で再会して一緒にいた」
「お前なんや、そのロマンチックな展開は?」
「ロマンチックって」
「偶然の再会やったんやろ?」
「そう」
「広い北海道で」
「まあ」
「ファムファタールやないか。その子は、お前のファムファタールや」
「何それ? ファムファタールて?」
「運命の女」
「でも、同じ時期に同じようなトコ走ってるから、逢う事もあるよ」彼女との運命を論じられた事に少し快くはなったが、敢えて抗いたくなった。
「で、その子とはどうなったんや?」
「一緒にバス乗って…」
「で?」
「で、山の中の滝に行って、こう…なんて言うの…、抱き合って…」
「はあッ?」
「まあ、そういう事ですわ」
「相手、美人なんか?」
「かなり。ショートヘアで…多分、Fカップ」
「揉んだんか?」
ストレートが過ぎる。
「いや…ちょっと触れただけで…」
「ボケがッ…」
「いや、なんというか、成り行きで…」
「叔父さんの事があるから、しんみりしてるかと思て電話したったら、一人だけいい思いしやがって。俺が今、何してる思てんねん」
「バイト?」
「おう、そうや。どっかのアホが無断欠勤してシフトに穴、開けたからな」
「すんません」
「お土産くらい奮発せえ」
「了解しました」
「六花亭のバターサンドでええわ」
「何それ?」
「帯広の名店。有名やぞ。そこで買うてこい」
 その後、子安君の愚痴がホテルの部屋に帰るまで続いた。
そして明日の行き先が帯広に決まった。甘いもの好きの子安君らしく、途中の豊頃という町にある店のアメリカンドーナツなる物も食してくるように勧められた。北海道に走りに行ったら、食べると決めている物の中の一つだそうだ。
 僕は、一人の小部屋でベッドに寝転んだ。薄暗い間接照明。前の通りを走る車の、ずるると四輪を擦る音だけが聞こえた。そして今日のことを思い出した。
 同じ時に、同じような場所を走っているのだから、また会ったって不思議じゃあ無い。運命じゃなくとも。それは分かっていた。そのつもりだった。道東で行く場所なんて指折り数えるほどだ。ただ彼女は、子安君の言うとおり、運命の女だ。そんな気がした。それだけになった。

 ナオ…
 今、ナオは何をしているだろう。どこにいるのか。
 ジーンズを脱ぎ、彼女の顔を思い浮かべた。
 そして彼女の胸を。
 ジュンにしたのと同じように正面から彼女の胸に触れ、指先に力を入れた。ジュンと違い指先は胸の中に沈んでゆく。そしてジュンの時と同じように唇を奪った。ジュンは一度顔を背けたが、ナオは美しい曲線の顎を上げ、半開きの唇を僕に捧げた。唇を重ね、舌を絡ませた。
ジュンとは唇は交わしたし、奪いもしたし、求められもした。だが舌を絡めたのはホンの少しで、ぎこちないものだった。彼女が嫌がったので、それ以上は求められなかった。
だがナオは違う。彼女は僕を甘く吸い込んだ。もっともっと奥までだ。
僕はナオを抱え上げベッドに誘った。そして呆れるほどに唇を交わし、ブラジャーをどうしたのかは分からないが、彼女の美しい胸を露わにさせた。
僕は、あえて美しいものの形を壊すように揉みしだいた。
「あっ…」ナオが吐息を漏らす。今まで自分には聞かせなかった可愛い声だ。きっと姉貴ぶっていたのだ。無理に背伸びなんて。
 僕は彼女を愛おしい、と感じた。彼女を守りたい、と思った。
 そしてもう一度、唇を奪った。そして「もっと」とせがむ彼女の唇を置き去りに、美しい胸にふさわしい可憐な色の乳首に唇を合わせた。
 熱く甘く吸い込んだ。彼女が波打つ。
「お願い…来て」と懇願され、彼女の下着を、尻や引力など計算せず脱がして奪い、屹立した陰茎を彼女の奥に…きっとそこにあるであろう、女の穴に捩じ込んだ。
 クラクラした。そして僕は自分の右手で果てた。

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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