自由ということ
高校の時「『普通』は格好悪い病」を激しく拗らせている同級生が居た。
何かにつけ「人と同じことして何が楽しいんだ」と突っかかってくる。真面目に勉強している同級生を見つけては「大人の言いなりで不自由」だとレッテルを貼って見下す。人気漫画を読んでいる友人に絡んでいって「皆が読んでるような漫画読むなんて時間の無駄。俺みたいに○○読めよ」と言って勝ち誇る。進路希望調査でも「俺は自由に生きたいから」と声高に叫んで「無職」と書いた紙を提出していた。
確かに「周りがやっているから」という理由でそれらに着手していたのであれば「主体性が無い」という批判も成り立つ。けど、彼の場合は、とにかく「マイノリティでありたい。人と同じことをしたくない」という表面的な形に拘り過ぎて、脊髄反射でマジョリティと真逆の行動をしていただけで、結局そこに彼の主体性を見つけることはできなかった(行動原則としての反骨心は認めるが、実際に彼の行動を規定する主体は彼とは言い難い)。
彼は、嘲笑の対象にしているマジョリティと、自分自身が本質的には同じだということに気付いていなかった。
「大多数と違う考えを持つ俺カッコイイ」という、思春期にありがちな思考回路は理解できなくもない。自分にだって、そのように考えている時期は、確かにあった。でもそれは、あくまでも自分独りで考えた結果として他人と違っていたから格好良いのであって、何でもかんでも反発することを格好良いと思っていたのではない。
最近のコロナ騒動に代表される、政治に関する諸々の反応を見るにつけ、十代二十代の頃に感じた違和感が、ふと頭をよぎった。
「権力を批判することが自由の象徴」だと勘違いしてる輩が多くて辟易している。そりゃ確かに、政権批判した途端に秘密警察が飛んでくるどこかの国に比べたら遥かに健全で自由なんでしょうけど。
とりあえず何でもかんでも政治家のせいにしたり、とりあえず何でもかんでも「与党の言うことは信用できない」と反対したり、そんなのは、ただ脊髄反射で反対の事を言っているだけで、上述の拗らせ同級生と何ら変わりがない。(タイトル通り「自由とは何か」という話がしたくて、その例として取り上げただけのことなので、特定の政党を賛美したり特定のクラスタを批判したりしたいわけではありませぬ)
そういうことを言ったら「庶民から反対意見が出なくなったら終わりだ。自由の死だ」と大袈裟に反論された。いや、考えた末の反対意見まで控えろなんて言ってませんよ。
僕が言いたいのは「そういう人って、もっともらしく反論してるように見えて、実は難癖付けたくて屁理屈こねてるだけってパターン多いよね」ってこと。そして、もし為政者が全く別の政策を実施していたら、やはりそういう人は適当に難癖付けていたんだろうなというのが、不思議と容易に想像できてしまう。
「周囲の顔色を窺う日本人の悪い癖が」とか「政治に物申すためにも、他人と違った物の見方をしないとダメ」って言う人がいるけど、表面的な態度だけをピックアップしても意味が無い。各人が自分自身で思考するという過程と、その結果として導き出された答えこそに価値がある。
それで多くの人がたまたま同じ答えを出したのなら、それで良い。わざわざ率先して「人と違うことを言う変わり者」であろうとする必要は無い。会社とか地元の自治会とかでも、「俺は空気読まずに言いたいこと言うよ」みたいな雰囲気を出して、文句ばかり言う人が居るよね。空気を読まないのは大いに結構だが、考えてから喋ってくれよと思ってしまう。
意見は好きなように言えば良い。僕が問うているのは、「その意見の中に貴方の主体的な意思は存在していますか?」ということ。
それを言うとまた「俺はホントにそう思ってるんだけど(ドヤァ)」と返ってくる。それが結論ありきの単なる辻褄合わせの屁理屈でないことを願っている(←偉そうに)。
「自由」とは、「自分に由る」こと。
それはつまり「自分の意思は自分に由来する」ということ。
大事なのは、思考の主体が自分自身であるかどうか、その一点だ。
「好き勝手に振る舞うこと」や「マイノリティを貫くこと」は、必ずしも自由と同義ではない。なぜなら、そこに拘って自分の主体性を見失うのは自由とは呼べないからだ。むしろ不自由の極み。
「思考の内容が」ではなく、「思考する行為が」他から独立していることこそが自由なのだ。
自由とは意思そのもの。思考することが自由の証明。
思考を止めることは、すなわち自由を放棄することと同じ。
意思だけが、全てから自由。